(1)「国技館」という名前から「相撲は国技」という観念が生まれ、定着した。
という報道を聞いて、コメンテーターたちは、
「知らなかった、えー」と口々に言い、
「建物が先で、"角力館"となっていたら、
相撲=国技とはならなかった」という。
→「国技館」と名付けた理由は江見水蔭の「相撲は国技なり」という文章から。
ならば、「別ルート」で同結果になる可能性がある。
しかし、そうなったときのプロセス・背景によっては、
意識性が高くなり、「精神のあり方」が違ってきたかもしれない。
(2)「相撲は国技か?」②
「国技」の英語表記は?
考えたことないと思う。
TVでも言っているのを聞いたことがない。
調べてみると、"national sports"らしい。
「ああ、そうか」
と、思ったかね?
「なら、相撲は国技じゃないなあ…」
学校相撲は別として、
国技館で行われている「大相撲」は「スポーツ」ではない(とされている)からだ!!
例えば、
・体重別制をとらない(unfair)
・最高位横綱になるためには横審による審査で
「心技体」が備わっていることを認められねばならない。
・横綱は負ける(越す)とchampionの座から降格するのではなく、
引退せねばならない。
・審判(行司)のあり方の特異性。等々。
でも、「相撲は、日本古来の"肉体競技"だ。」
となると、
「肉体競技とスポーツは違う。必ずしも、一致しないことがある。」
「何・どこが違うのか!?
それこそが、"相撲は国技"の所以がある。」
(国技を"national sports"と訳すのは正しいのか?
という問はある。
イギリスにもラグビー、クリケットなどの「国技」はあっても、
"national sports"という言葉はあるのか?
もし、ないのなら、上の論理はなりたたないなぁ…)
投稿日:2011年02月26日 (土) 01時49分
杉山@3期です
返信削除>「何・どこが違うのか!?
>それこそが、"相撲は国技"の所以がある。」
「相撲が国技たるの所以」、正直、考えたこともありませんでした。
どこかできまっているじゃないのくらいに考えてりました。
Wikipediaによると国技には大きく二つの意味があるようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%8A%80
1)国家機関によって特別の地位・待遇を与えられているもの
2)国民に深く親しまれ、その国の文化にとって特に重要な位置を占めるという
考えが国民に広く支持されているもの
日本、相撲の場合は上記の2)にあたるようです。
「深く親しまれ、広く支持されるもの」も大切ですが、
この場合「文化の重要な位置を締める」がポイントのような気がします。
お相撲さんは現代に生きる侍のような(であってほしい)気がします。
そう考えると「武士道」「儒教」が背景にあるのではないでしょうか?
相撲の衰退、荒廃は、僕らに日本の現状の縮図のように見えてきました。
中村(20期)です。
返信削除相撲というと、三戸ゼミ生としては、2年前の追い出し合宿で行ったミニ討論会テーマ、「相撲は国技か」が思い出されます。
相撲は国技か。国技を「national sports」と考えている限り、相撲が国技の座を守り切ることは難しいのだろうと思います。
相撲は他のスポーツと同じように、明確なルールを定めたり、あらゆる情報を開示したりと、“スッキリ”とさせることで魅力の上がるものでもないだろうと考えるからです。
相撲はスッキリしないことを常態としてここまで機能してきました。そのある種の不明瞭さがあるからこそ、国技としての神秘性、未知性が保たれているのではないか、と思います。神秘性、未知性の魅力という点で、もしかしたらスポーツというより伝統芸能に近いものなのかもしれません。
また、相撲力士をスポーツ選手と捉えることも無理があるだろうと思います。力士になることは単純にその種目のプロ、強者として活動するということではなく、力士という生き方を受け入れることなのではないでしょうか。だからこそ、勝った後にガッツポーズをすることが大きな問題となったり、土俵という競技場外の振る舞いに対して、力士としての厳密な振る舞いが求められることが当然、あるべきとされているのではないか、と思います。
しかし、明らかに世間の流れは「ルール化、情報開示」により、“スッキリ”させること、他のスポーツと殆ど同じようになることをを求めています。
現状の相撲の問題点をよしとするのでは、決してありません。しかし、そう考えると、今後相撲が国技として生き残るのは、本当に難しいことであろうなあと感じます。