2011年4月30日土曜日

三つの箱から世間を覗く(第65回)

「学者・識者の責任・曲学阿世~2011.4.30のTV~」

○覚悟を求められている「識者」
昨日(4/29)小佐古敏荘内閣官房参与が辞任した。
政府の対応の遅さ、情報の「隠蔽」と共に、
「変更された小学校などの校庭利用を制限する限界放射線量は自分の子には浴びせられない量だ」
という趣旨の理由に因るものだ。

○今朝、「ウェーク」で「それでも原発は必要か」をやっていた。(4.ch)
コメンテーターの一人、木場弘子は政府のエネルギー・原子力部会委員だ。
他にも、田中隆弘原子力安全・保安院広報担当(?)
現状分析は「脱原発派」の研究者、
政治家からも「脱原発」の河野太郎衆院議員など。
河野太郎は、「自民党はこれまで原発を推進して来、安全委員会、保安院も自民党政権が…。」
として、反省すべき、と言う。
(臓器移植法などで、評価したくなかった河野だが「自党の責任」を口にしたのは大いに評価したい。)

○木場は、TV画面で自分が政府の原子力政策に関与してきたことを流されても平気なのは凄いなぁ…。
政府委員は官僚政治の片棒担ぎをするのが仕事であることは、しばらく前から明らかになってきた。
「結果」が悪くなければ、「責任問題」も生じまい。
だが、今回の原発事故は、ここに関わったものが全てが「責任を問われる」べきものだ。

○小佐古敏荘は立派、木場弘子はダメ、という趣旨ではない。
大体、(ネットで調べてみると)小佐古敏荘氏は、国側、電力会社側にベッタリの人物だったという。

○政府に加担するな、とは言わない。
だが、権力と関わる時、「識者」と呼ばれるものは、
時の権力の「正当化」のために委嘱されるのだ、ということを忘れてはなるまい。
(反対派は、原則呼ばれない。官僚の作文にサインすることが期待されている。)

だが、自分の「学識」を評価されているから、その地位に就く正当性がある。
社会も、「学識」に対する信頼から、その識者が認めた「報告書、政策」を受け入れるのだ。

「原発賛成」自体を「禁ずる」気にはなれない。すべきでない。
だが、
・「原発推進派」は、「原発の被害」に対し、「応分の責任」を負わねばならない。
 併せて、「自分の考え」が誤っていたことを認め、謝罪すべきではないか。
・「原発推進派」でもないのに「市民、消費者、女性」だのというものの「代表、代弁者」として、
推進に関与したものも同様の責任・謝罪があるべきだが、
こちらの方が、はるかに「罪が重い、質が悪い」であろう。
推進派の学者は、自分の学問に立った。
だが、「市民派」だの「女性目線」で、「推進派」に協力したものは、
自分の「学識(立場)」を曲げたのである。

科学・学問の「正誤」「責任」とは別に、
研究者・学者の「責任」がある。
その最大のもので、絶対許されないのが、
「曲学阿世」であろう。

「曲学阿世」の存在は、その言葉と同じだけの古さを持つ。
だが、この「生まれ方」は時代・社会で違う。
現代日本において、
「社会に役に立つ」テーマにだけ研究費を配分せよ、
資金を自分で(企業から)調達してこい、という。(所謂「競争原理」。)
より、重要なのは、研究に必要な資料・データを、
研究対象から得なければならない点だ。
原子力・原発安全性を研究するもの、電力会社の社会的責任を研究するものは…。
協力的研究者と資料・データ面で大きくハンディを受けよう。

政府とTVは、「曲学阿世」を求める。
自分たちの都合に合わせて「自分の学を使う(曲げる)」ものを求めるのだ。

だが、「曲学阿世」は、学問・学者の社会的信頼を棄損する。
自然科学と社会科学の両輪により成立する、現代社会における「曲学阿世」の罪の重さを、
(「曲学阿世」を)求める者も、答える者も、その結果を受け入れるその他の者も、
今一度、考えてみるべきである。


気付かぬことが、基本・基盤であり、
気付かぬことにより、結果でたあとで、
取り返しのつかぬことをした、と深い深い後悔に沈むことが、
個人でも、組織・集団でも、社会でもあるのだ。

2011年4月29日金曜日

三つの箱から世間を覗く(第64回)

「日本の将来を議する国会議員」

今日も、予算委員会が放映されている。
自分たちの「これから」が論ぜられている。
見・聞かねばなるまい………。

福島県、宮城県、岩手県選出民主党議員が次々に質問に立つ(なるほど…)。

○原発国策に協力した福島県・地元が「一方的に犠牲になった」と民主党・渡辺恒三。
流石である。「国難に一致団結せねばならぬ、総理は死ぬ覚悟で当たらねばならぬ」と、
野次を抑え込む迫力ある質問(演説)で雰囲気を作った。
スピーチの力、経験からくる貫禄などを感じさせてくれるものだった。
(余談だが、ランちゃんの弔辞の方がミキちゃんの弔辞より優れていた、と感じた。
この差は何から生じたのか?面白い。)

こうして作られた気持ちが「本物」であったら、
あとは、官僚に適切な指示をし、国民に協力を求めるだけであろう。

○だが、「東電(の責任は極めて思いが)だけを悪者にするな。我々がしっかりせねばならぬ。」では、
「誰がこの事態を引き起こしたのか?」を曖昧にする。
「二度と引き起こさぬようにしよう」とするなら、
「なぜ起こったのか?→誰がどんな意思決定をしたのか?→その動機・理由・背景」

また、何よりも「責任の所在を曖昧にして、本気で立ち向かえるのか?
自分にいかなる責任があるのかの認識は大事ではないか?」
野党自民党の「原発国策推進」責任を問わない。
→民主党の有力者は元自民党
→自分が(かつて)やったことの責任はとらなくていい
→そのようなものの「責任感」など誰が信じ・期待するのか?

○原発国策に協力した福島県・地元が「一方的に犠牲になった」という。
→同じように国策に殉じた「靖国の英霊」を粗末にしてきたじゃないか?
→戦争を全面否定し、「お国のため」を馬鹿にしてきたじゃないか?

自衛隊に「軍事機能」に期待するのも、「災害救助」に期待するのも、
共に「国難」に当たることではないのか?

○石破自民党議員の質問
「(何が問題となっているのか認識できているのか?例えば、)
 仮設住宅が遅れている理由は何か?」
 に対し、菅直人が長々と答える。

 聞いているものの信頼を得る答えは何か?
 「敷地確保です」でも「資材確保です」、でもなんでもいい。
 短く、力強く語ることこそ肝要ではないか!

 正解を答えねばならない、という恐れで歯切れが悪いリーダーに誰がついていくのだ?
 トップは細かい現場の事情まで必ずしも熟知する必要はない。
 乱暴に言えば、2番目以下の理由を答えて、それを指摘されたっていいのだ。

菅の答弁は、いつも「言い訳染みて」聞こえる。
「えー、あー、うー」なしには語れない。
伝えたいことがあるんじゃないんだなぁ…。
(責められなければ、いいんであって)
実行・実現されなくてもいいんだなぁ…。
(文句を言われなければ、いいんであって)

「なりたい」だけで、「やりたいこと」がなかったんだなぁ…。

○石破茂は、力強く、良い質問をする。
渡辺恒三といい、「人物」がいないわけじゃない、と思ってしまう。

だが、二人とも、この「大災厄」への(これまでの)責任に
残念だが、立っているようには思えない。

○自民党・吉野正芳(福島県の双葉町を含む地域出身)が続く。
「安全・保安院や安全委員会がチェック・認可していたが、その内実は…。」
と、言う。私は「おお…、ついに…」と思った。
ところが………!!
「政府にも責任があるのではないか?」と問い、
菅総理が「責任があります」と答えると、
「連帯責任を認めるなら、東電の責任ばかり責めるな!
政府が"連帯責任"を認めるなら、政府が第一義的に責任をとるべきではないか?」
と言う。続けて、「原賠法における"天変地異"の解釈」を訊ねる。
「東電に責任を押し付けているじゃないか!」と言う。
こいつは、何が言いたいのか?
どうも、地元被災者たちが困っているから、政府が助けろ、
と自分が主張したことをアピールしたいとしか思えない。

当然、自分を投票してくれた有権者の声に応えねばならない。
だが、事故を起こした「原発」を推進し、認可・監督してきたのは、
自分たち自民党ではないか!!??
(我ながら、飽きないなぁ…)

情けないなぁ…、浅ましいなぁ…、醜いなぁ…。

○未曾有の大災害の復興だけじゃない。
財政再建、地方分権、年金問題、
エネルギー問題、資源問題、温暖化対策、
領土問題、日中関係、日米関係、安保問題、基地問題、北朝鮮問題
少子高齢化の日本の未来。
まだまだあろう。

列挙しているうちに、
どんどんリストが長くなっていく。
この「膨大な課題群」………!

「経済最長」がなければ、どうなるんだ?
だが、「経済成長」したら「悪化」」する問題がある。
これまでのやり方でない「経済成長」が要請される。
「経済成長」では到底解決できぬ問題がある。

どうなるんだろう…。
責任、専門家の信頼、…。

2011年4月27日水曜日

三つの箱から世間を覗く(第63回)

「いいかげんにせんか!予算委員会の茶番」

参院予算委員会で、菅に対して、
「長崎・広島の原爆と今度の原発事故はどう違うのか?」
という耳を疑う大愚問を発する○○がいた。
愚問に愚人が答えようとすれば当然、愚答となろう。
「原爆は一時的に核反応が…」と長々と答えている。
流石は、理系出身で原子力に強い総理の答弁だ!
(私なら、1分も喋れ(ら)ないなぁ…。)
貴重な審議の時間に
菅首相の「原子力に強い」ことを野党・国民に知らしめる質問を誰が発したのか、と問えば、
民主党・緑風会の増子輝彦議員であった。

議席数に比例して各政党に質問時間を割り振る。
その結果、最大政党たる与党が最長時間を貰い、
「茶番質問」で国会の時間を半分以上つぶす。

「誰の責任か?」的質問があった。
答は当然、「国策ですから、政府の…」の後に
「これまで国政を預かってきたのは、自民党ですから…」
と、続くと思っていたら…。
なぜ、自民党を怖がらねばならないのか?
ここでも、「対決姿勢」の底が割れたな。

続いてご登場遊ばしたのは、自民党マドンナ猪口邦子議員だ。
「放射性物質を止められない政党(A)は、
速やかに止めることができる政党(B)に政権を渡すべきだ。」
と言い放つ。

「おお、その通りだ!」
重要な問題解決が要求されている時に、
その力量無き者に、その任に当たらせることはできない。
誰もが、大きく頷くであろう。

じゃ、猪口先生にお聞きしたい。(かつては、そして議長は「君」で呼ぶが…。)
現与党民主党は、「放射性物質を止められない政党(A)」であることは衆目の一致するところであろう。
だが、「速やかに止めることができる政党(B)」とは?
ここで某J民党と我々との答えが決定的に異なる。
(本当に残念なことには、我々≠国民であることだ)
一体、どの政党の誰が、この難局を解決することができるだろうか?
知っている人がいたら、ぜひその名前を教えて欲しい。

菅直人の表情、語り口、姿勢等々の拙劣さ。
彼以外ならば、現政権の信頼ももう少し、と思うが…。
彼の資質、評価は極めて重要だが、ここでは置く。

「想定外」の「未曾有」の出来事。
しかも、「(安全)神話」に守られた当事者・関連者と共に対策を立て、
解決していかねばならない。
もう一度、言おう。
一体、どの政党の誰が、この難局を解決することができるだろうか?
外部から、全権を任されて、チームを率いて乗り込むことが許されるなら可能かもしれないが…。

だが、自民党は、今回の大災厄・国難を引き起こした張本人ではないのか?
まさか!?自分たちは「張本人」なんだから、「速やかに止めることができる政党(B)」だ、
と言いたいわけではないと思うが…。

いっそのこと、
「私たちが引き起こしたことだから、
 私たちには、解決する責任がある。
 解決に当たらせていただけないだろうか。」
と、言えばいいのだが、絶対×3に言わないだろうなぁ…。
言ったら、私が生きている間は、自民党に投票し続けるのだが…。

民主党も言ってやったらいいのに…。
「総理、一体誰の責任とお思いですか?」
「○○先生にお答えします。
原発政策を推進してきたのは自民党政権であったと存じております。」

ちょっと前にも同じことを言ったような気がする。
マス・メディアが指摘するようになったら、
自民党の「無責任な鉄面皮」も少しは変わり、
私も二度とこのことを言わなくてもすむのだが…。

センスもなく、こんな茶番劇を繰り返し、
国民の信頼を裏切る、国会議員は必要なのか?
こんな質疑をやらせるために、

国会議員に支払われる額は、
歳費 130万1000円(月額)
期末手当の支給(6月、12月)
文書通信交通滞在費 100万円(月額・非課税)
旅費、議会雑費 6,000円以内(日額)
JR特殊乗車券、国内航空会社航空券の支給、等々
集参併せて700名強。
総計200億円を優に超える額を毎年毎年払っている。

議員立法をさせず、頭数だけの存在の民主党なら、
一院制、定数100~200、報酬1,000万円位でいいんじゃないか?
カットした分を復興費用、そして国債償還費にあてたら…。
人数も少なくなると緊張感もますしね。
(勿論、地方に予算・権限移譲とコミでだが。)
復興のための増税の前に歳費・報酬5~7割カットを自ら打ち出せ、
と言いたくなるぜ。

本当は、それだけの仕事を…。

続く質問の一つは、米軍の助力に対しての「感謝のメッセージ」広告に、
「オバマ」の名がないぞ、アメリカを特別扱いしてないぞ、
国民の税金を使ってそんな広告では…、
というものだった。
いったん中断して、また再開しようと思ったんだが、
なんか、こんなしょうもないネタを扱うことが
バカらしくなっちまったので、申し訳ないが、ここで終わる。

2011年4月25日月曜日

三つの箱から世間を覗く(第62回)

「第57回の質問に答えたい」

【質問】もし、あなたが総理大臣・東電社長なら、どのように被災者を訪ねますか?

これに、竹田君、太田君、中村君、近藤君の4人が答えてくれた。ありがとう。

(1)まず、4人の答から紹介したい(解答の要点部分のみ)。

○姿勢・伝え方について
「責任ある立場として、自分の非を認め、誠心誠意謝罪する」姿勢を見せる
返答に口ごもって答えられないなんてことはあってはならない。
 伝える内容について
「代表として覚悟を決め、全身全霊をかけて力を尽くしたい」
具体的な今後の方針等を述べることは難しい。よって、謝罪文と今後の姿勢を伝える。(竹田君)

○この責務から逃れることなく必ず全うするとの強い決意を示す
被災地を復興し、避難者の生活を元通りにするまでの方向性を説明する
ことくらいしか思いつきませんでした。(太田君)

○まず考えられるのは、実際に行われたように被災者一人一人に向かって声をかけることですが、
映像を見る限り菅総理は全くの無策であったように思います。
 場当たり的に対応して何十何百と言う人に対して好感を残そうということは、非常に高度な力を要すると思います。
「何を、どのように伝えるか」を明確にしない限り、この手段が奏功することは難しいでしょう。
別に考えられるのは、全体に向かって演説(スピーチ)などで言葉をかける時間を設けることでしょうか。
自分が「何をしに来たのか」を明確にすることがまず必要だと思います。(中村君)

○避難所を訪問する意味・目的を考えると、以下の2点が浮かびました。
①自分の目で見ることで、状況を確認する(何があって、何が足りないかを把握する)
②被災者の方々を勇気づける

そしてそのために具体的に何をするか。
まずは、被災者の生活している現場と生活環境を確かめることです。
それには、実際に注意深く見て回ることに加え、直接話を聞く、ということがあります。

また、勇気を与えるためには、そこにいる全員と直接話をし、
どのように対応するか、現状ではどうなっているのかを説明すべきだと思います。
もし、一人一人と話すことが不可能であった場合なら、複数人ずつのグループを
回り、全員と少なくとも会話することができたのではないか、と思います。(近藤君)

(2)正解がない問題なんだが、いずれも「間違い」ではない、「なるほど」ではないか?
ある答えを出した人も、他の答を間違いだとは言うまい。
にもかかわらず、菅総理も清水社長も「正解」を選べなかったのは、なぜだろうか?
君たちは、彼らの立場だったら「正解」を選べるだろうか?

彼らも馬鹿ではない。助言してくれるスタッフもいるだろうに、なぜ?

私は、謝罪なり、説明なりするにあたっての「心」作りが重要だと思う。
被災者の心情にどれだけ寄り添えるか、
被災者の心情と「共感」できていれば、
謝罪も、説明、説得、激励、何でも来いになるだろう。

では、どのようにすれば、被災者の心情と「共感」できるようになるであろうか?
そのヒントが両陛下なのである。
両陛下は、被災者に「心から」共感できている、しているから、被災者の心を打つ。
勿論、我々が両陛下のような人格、心掛け・心持ちなどを持ち得るはずもない。
だが、両陛下が園遊会などで招待客に遭うに当たって、相手のことを聞いてから会う、と聞く。
自分のことをそこまで知っていていただいているのか、と感激するという。
また、陛下は、常日頃から国民のことを心がけていると聞く。
だが、我々凡人は、自分と周りの人のことしか考えず、
謝罪に行く時も、「謝罪」せねばならぬからであり、
それは強制されたものであり、
相手その人に会いに行くわけではないのだ。

そんな私なら、まず被災地を訪れたい。
その地の有様を「心」に刻み付けてから、被災者に会うことにしたい。
被災者が生まれ育った土地、それがいかに変わり果てているか、
それを見ることにより、
被災者の悲しみや苦しみを「共感」することが、少しは可能にはならないだろうか?

その「心」から出てきた言葉は、被災者の心に少しは届かないだろうか?
被災者を無視して通り過ぎるようなことはすまい。
(もし、自分だったら、どんな風に言うか想像してご覧。言葉が浮かんでくるぜ。)

以上、どうだろうか?
私は、この答えが浮かんだ時、
思わず、「どや顔」になってしまったのだが…。

(3)「訪問時期」についても触れられており、非常に重要な点だが、紹介にとどめておく。
○伝える時期についてですが、もう少し早い段階で訪れるべきであったと思います。
せめて、震災1週間後には国民の前でトップが伝えるべきではないでしょうか。
信頼は迅速な対応と姿勢によって築かれると思います。 (竹田君)

○これが震災直後に訪れるのであれば、誠心誠意お詫びする姿勢を示すだけでも
まだ許されるかもしれません。
しかし、事故から1か月以上を経過した時期にトップが訪問する際には、
民間企業間のクレームに置き換えて考えてみましても、納得性の高い
原因分析と再発防止策、そして補償内容が十全に用意されていない限りは
門前払いされても致し方ないかと思われます。(太田君)

2011年4月24日日曜日

三つの箱から世間を覗く(第61回)

「原発誘致の責任問題 ~第54・55回に続く~」

第54、55回における、原発被災者に対する論評は、
被災者の境遇・心情にあまりにも配慮が乏しい、
「酷い」「公正を欠く」と非難されるかもしれない。
この2回に対しては、コメントもしづらいかもしれぬ。
少し、書き足したい。


福島など各地で引き受けられている原発の背後には、
ただ、金だけが動いたわけではない。
実に様々な「思惑」が渦巻き、
「駆け引き」「取引」「泣き落とし」それ以下の「下種な行為」が
あったことについて触れ、考慮せねばならぬことを、
付け加えておかねばなるまい。

『創』2011.5・6月に、
永六輔が水上勉と共に、福井で反原発運動をしていた時の話が出ている。
反原発賛同者の淡谷のり子・高橋竹山のコンサートに、
五木ひろしなどのコンサートを同じ日にぶつけてくる。
そのスポンサーが電力会社。

同じ号に、珠洲原発反対運動に関わった人の手記があり、
御用学者たちが1回何十万円もの謝礼をもらって、
地元説得に当たっていたことが書かれていた。
(その連中がTⅤに出てきて、
「大丈夫です、心配する必要はありません」
と言っている。
そういう学者を選んでTV局は解説させるとは…!?
と、不信感を述べている。)


東電・関電など超優良企業のエリートサラリーマンも、
地元有力者たちと一緒に、
反対派切り崩し
「に奔走した」or「で給料をもらった」or「にやむを得ずかかわった」
のだよなぁ…。
TV局のエリートサラリーマンも、
スポンサー様への配慮にこれ務めざるを得ない。
原子力研究をするものが、反原発なら、
データの入手も発表の場も恵まれまい。


ただ、「他者のせいに」する限り、
「愚行を繰り返す」ことになる。
「他者のせいに」する弱者・犠牲者の話に頷いている限り、
「自分も被災」する道を選ぶであろう。

自分が「強者」の立場に立ったり、
「強者の僕」になったものは、
「自分も被災」したときには、
何を思うであろうか?

現在、最も「他責の論理」に立っているのが、
新聞・TVであろう。
そのマス・メディアが「世論形成」をし、
「内閣支持率」を計測し、政権交代に一役買う。

まぁ、「他責の論理」に立つものは、
「後悔の淵に沈む」ことはないであろう。

そちらの方がいい・楽、ということで
「他責の論理」が蔓延する
「大衆社会」となっているのだろうなぁ…。

三つの箱から世間を覗く(第60回)

「大震災の復興への道」

まず最初に。
太田君、杉山君、竹田君。
コメントありがとう。
ますます、書く気が出てきたよ。
(「おかげさまで、60回」)

①「TBSサンデーモーニング」で、
戦後の生活変貌を電気・家電により描いていた。
そして、このような電力多消費社会は…、
というコーナーで、

「節電、我慢する」といっても、誰がそうさせるんだ?
その権力の正当性は?
と、寺島実朗は言う。
(ああ、いわゆる「石原嫌い」だな?)

彼が措定している「権力」とはなんだろう?
政治(家)以外を指しているとは「通常」受け取れない。
「正当な権力」なら、従うというのか?
経済はできる限り市場に任せよ、と言ってきたんじゃないか?

今、日本の多くのものは「エネルギー・電力多消費社会」の限界を感じたり、
制限やむなしと思い始めているようだ。
(とは、言ったが、新聞もTVも見ない人たちは、文句言いながら我慢、だろう。)

「権力(者)」に頼らねば、社会は変われないのか?
(その癖、石原慎太郎のような「権力感」プンプンは嫌う)

「文明生活を電気により求め、替わりに伝統文化を失った。
このあたりで、文化生活(省エネ・省資源)を再評価・シフトも考えても…」
浅井慎平あたりが言わないのだろうか?
「生活スタイル・自然観」の転換による「自然な節電(省エネ・省資源)」。
(クーラー・冷蔵庫と浴衣・打ち水等の併用)。

②10時からの「サンデー・フロントライン」
復興後の経済問題、復興資金の財源問題などをやっていた。
色々な議論がなされ、意見も対立しているが、
「経済問題」を論議する限り、
「単なる現状回復」ではなく「新たな発展」を、となる。

③短期では復興問題、経済・財源問題が重要であろう。
だが、①と②の問題は、いかなる「未来像」を描くかであり、
これまでの生き方・あり方を問い直すことから始まるはずだ。
勿論、「TPPの観点から日本農業の再建」を考える。
「温暖化・魚離れから被災地の漁業の再建」を考える。
「津波に耐える街づくり」を考えることは大事だ。

そこまでの議論なら竹中平蔵の議論など大いに聞くべきところがある。
だが、竹中の日本経済改造プランは大方の賛同を受けぬまま頓挫し、今に至っている。
(彼は今でも「不十分だからダメなんだ」と繰り返している。)
政治家は、国家・社会のあり方、国民の生き方(価値観・美意識)の観点から、
つまり①の観点から②の問題を考え、政策策定をすべきであろう。
だが、小泉に①がなかったことが②の専門家の竹中平蔵の不幸があり、
菅には、①のかけらどころか、自己顕示欲・自分可愛さしかないところに、
日本の被災者の不幸がある。

私は、安部晋三の「弱さ」や石原慎太郎の「傲岸さ」は、受け入れがたいが、
彼らが①の視点から発言し(それが物議を醸し)ていることを評価する。
二大政党とは、
①vs①や、①vs②であってこそ意味があるのではないか?

②vs②で、現行の与野党対立があり、
「高速道路無償化」「子ども手当」等のの(チャチな)議論がある。

①vs①の元となる、未来を展望する小政党が排除される「小選挙区制」の欠陥に
国民・有権者は早く気づきかねばなるまい。
未来像を政治の場でも模索し、
議論し、作っていかないと、
この「大震災」の犠牲者は納得できぬばかりか、
全国50箇所以上の原発の行方は、
その原発を必要とする我々の生き方は、
ダラダラと今のままで続くであろう。

沢山の委員会・審議会をなぜ作るのか?
①あっての存在・機能ではないか?

2011年4月23日土曜日

三つの箱から世間を覗く(第59回)

「言葉の重さ、何を伝えるのか? ~風評被害をもたらすもの~」

(前回に続いて、2011.4.23の朝のNHKニュ-スから。)

○校舎が流され何一つ残っていない高校を見ている高校生。
「将来、親と一緒に漁に行けたらいいなとおもう」
と語っているのを、画面下部の文字では、
 A.「将来、親と一緒に漁に行けたら」

と表示していた。
私は、この省略の仕方は適切ではない、と思う。
(省略自体は「仕方がない」としておこう。一々文字にすることの是非はある。)

私なら、次のようにする。
 B.「将来、親と一緒に漁に行きたい」
 
Aのように表記してあると、
この高校生が、近年よく聞く、
最後まで言わず、語尾をあいまいなしゃべり方をしているように受け取られる。
これでは、「正確な」報道の役目を果たせぬだけでなく、
このような「尻切れ話法」の教育・伝播を助長することになる。
(「標準語=共通語」は学校教育と共に、
NHK、TVにより共有された。
言葉遣いはともかく、イントネーションはラジオ・TVが決定的であろう。
「関西弁」や、去年の「…ぜよ」を想起されたい。)


「煩いことを言うなぁ…。意味が通じればいいんだろ。」
という「声」が聞こえてきそうだ。

「そう!意味が通じなければいけない」のだ!
だから、Bである。
高校生は、インタビュ-に戸惑って、口籠りながら語ったのではない。
「将来、親と一緒に漁に行けたらいいなとおもう」と彼は強く言ったのだ。
しっかりと心に抱いている「思い」を、しっかりとした口調で彼は語った。

だから、Bの「将来、親と一緒に漁に行きたい」が、
短縮した時の、「正しい」伝え方ではあるまいか。

映像メディア(特にTV)は何よりも「人目(視聴者)を惹く画」を撮ろうとする。
だから、被害者・被災地にハイエナ・禿鷹のごとく群がり、
加害者・被害者少年・少女の昔の写真・文集をどこからか持ってくる。
だが、その「人目を惹く目玉映像」だけでは、
「何」は伝わっても、「なぜ」や「今後」はわからない。
だから「解説・コメント」が必要になる。

TVは画像・映像と言葉の助けを必要としている。
「事実」とは「現象」+「意味」であろう。
「意味」を「正確に」伝えるためには、
言葉を「適切」に使う力・心掛けが必要なのだ。

○今やっている番組で、
「被災地産の野菜を食べよう」
「風評被害を吹き飛ばせ!」と言っている。

「風評被害」地は「被災地」だろうか?
福島県は全県が放射能汚染されているわけではない。ごく一部だ。
「被災地」が受けた「災害」は何なんだ?
「災害」を受けていない土地を「被災地」と呼ぶ。
これこそ「風評被害」じゃないか?
「風評被害を吹き飛ばせ!」という番組が、
放射能汚染されていない土地を「被災地」と呼べば、
避ける人が出てくる。

「被災地産の野菜を食べよう」の
「被災地」の「災害」とは「風評被害」じゃないか!!??
「放射能汚染」という「災害」を受けているなら、
その野菜は食べてはならないのだから。

自分たちが「風評被害」をまき散らしていることに気付かない鈍感さは、
日ごろからの「言葉遣い、言語感覚」の杜撰さから生じる。
(「差別語」にやたら敏感なマスコミ。
彼らがその言葉を使わないのは…。)

三つの箱から世間を覗く(第58回)

「喜びや悲しみ(私情)と式(公の場)」

(2011.4.23の朝のNHKニュ-スから)

○写真(遺影)を持って小学校の入学式に列席する二人の母親の姿が
ニュースで何度も流されていた。
(母親の辛さ・悲しみに対して、無情なことを言うことをお二人に許しを請うてから始めたい。)

裁判所などでの(斎場以外での)遺影を手にした姿に、
どうしても違和感を抱いてしまう人は、それなりにいるのではないだろうか?
ましてや、卒業式ではなく入学式である。
卒業式は、それまでの勉学が成ったことを証す場、「卒業証書」が渡される場であろう。
だから、卒業式の直前に亡くなった子供に卒業証書を渡すことも、
遺影で参加することも(まだ)わかる。
だが、入学式は、これからそこで学んでいく人・子供たちのスタートを切る場だ。
(可愛そうだが)学べなくなった子供には参加する資格はあるまい。
子供を失った親の「喪失感」を埋めるための行為であることは推測できる。
だが、「公的」、尚且つ「目出度い」場で、
そのような「私情」を晴らそうとするのは、いただけない、
というのが「大人」の見識というものだろう。

「式」とは何か?
なぜ、誰のために行うのか?

「出たい場」なのか「出なければならぬ場」か?
「成人式」と同じ。
出たくなければ、出なくてもいい「成人式」は、
その「原型」たる「元服(式)」とは、そこで決定的に異なるであろうなぁ…。
つまり、「(どんな)大人になるのかは自由」な社会なら、
成人式は「出なければならぬ場」ではなくなり、
騒いでもいい場になるのだろう。 

「自分の誉めてあげたい」、「自分へのご褒美」が溢れ、
「あなたの我儘かなえます」お店が増えてきた社会。
「我慢してはいけない」
「あるがままの自分が一番美しく、好き」な社会。
まだまだ、あるぞ、いくらでも。
「ジコチュー」社会に目を塞いで、
総理大臣や東電を責めたって…。

最後に、もう一度。子供を失った辛さには深い同情を抱いだいていることを述べておきたい。

だが、被災者がなぜ泣きわめかないのか?
耐える姿が「敬意」を抱かせ、
「同情心」を「見下す心」に変えることを防いでいるのだ。

「弱者」が「弱者」ゆえに「強者」に転化していることに、
「自らも、誰も気付かず、疑問に思わぬ、社会」の「将来」を想像してほしい。
このことを、強く強く言いたい。

2011年4月22日金曜日

三つの箱から世間を覗く(第57回)

「この差・違いはなんだ?」
①高島屋で福島+北関東3県に野菜の特売フェアが好評と言う。
だが、スーパーなどでは同地の物産は売れないと聞く。
千葉産の魚介が築地では全く売れないとTVで流れていた。

限定して「特別」と銘打てば、人は買うようだ。
「安全」な野菜と「不安」な野菜が同じ売り場にあると、手を出さない。
「不安による風評被害」なんだから、
「買い控え」ても不思議ではなく、
「買って」も不思議ではない。
心理学者に説明してもらいたい、と思ったけれど、
学者(科学)に対する信頼感は薄れちゃったなぁ…。

②菅首相が被災地を訪れた。
東電社長も被災地を訪れた。
被災地の人々、被災者から県知事までからケンもホロロの扱いを受けていた。

天皇・皇后両陛下も訪れになった。
被災者の人々は、
「ありがたい、励みになった」と喜んでいる。

このニュースを聞いて、
まさか、「天皇には責任も権限もないからなぁ…」とか、
「喜んだやつは一部だろ」とか言うやつはいないだろうなぁ…。

いや、いるだろうが、仕方ない。
だが、菅首相も東電社長も
「自分と両陛下の違い」は何か、どこから生まれるのか、
と問うどころか、疑問にも思わないだろう。

いや、この二人だけではあるまい。
このニュースを見たもののどれだけが、
そう感じ、考えようとするだろうか?

(例え、両陛下のように振る舞うことはできなくとも、)
感じ、考えさえしない人々が、
被災地の復興に当たり、
原発事故の対策と避難計画の策定に当たっている。
辛く、大変な目に遭い、
なぜ、と問うている人々に納得させることなどできまいなぁ…。

金だけの問題じゃないんだ、ということがわからないんだから、
いくら頭を下げたって、謝罪の言葉を繰り返したって、
「伝わらない」ということの意味はわかるまい。

そして、わからない者たちしか
これからも首相に政治家になるだろう。
わからないもの達が投票するのだしね。
そして企業のトップになり、
大事故を起こす惧れを恐れず、
起こったら、被害者をまた怒らせるのだろうなぁ…。

私も、これを読んでいる君も…。

【質問】もし、あなたが総理大臣・東電社長なら、どのように被災者を訪ねますか?
(月曜日に、私の答を書きたい。
それまでに、一人か二人の答を聞きたいなぁ…。
「正解」なんかない。どんな答えでもいい。
とにかく考えてみること。
ありきたりのことしか出なかったら、そう書けばいい。
首相や社長さえわからず、できないことなのだから…。
今、自分が考えられる答はどんなものか、を自分で確認すること、
が大事で、考えたものだけが人の答を聞いたとき、
そこから学べるのだと思う。)

三つの部屋から世間を覗く(第56回)

「お上頼みの日本人」

避難勧告が出された住民の中で、
「いつ帰れるんだ?時には一時帰宅ができるのか?
それがはっきりしなかったら、非難なんかできない!」
と言っている人がいる。何人かから聞いた(TVで)。

同じ論理の文句については、これまで書いてきた。
「正確な情報を出せ。一体食べてもいいのかどうか、わからないじゃないか!」
というやつだ。

誰のための「勧告」なのか?
自分の安全のためじゃないのか!?
自分の「為・利益」のためじゃないのか!?

イヤなら、逃げなきゃいいじゃないか?
不安なら、食べなきゃいい、飲まなきゃいいじゃないか?

強制されているのは、出荷制限を受けている農家・酪農家だけだ。
この人たちの辛さ・無念さ………。
避難勧告が出されたって、銃で追い立てられているわけじゃなかろう。
基準値を超えた野菜は出荷制限されており、店では買えないのだ!!

避難すれば、確かに不便だ。
いや不便以上に生活していけるかどうか大問題だ。
なぜ、自分たちがこんな目に…。と思う気持ちもわかる。
だが、地震被災地の人たちの多くからは、
「なぜ、自分たちだけがこんな目に…」と言う声は聞こえてこない。

避難所で自分たちで温かい食事を作っているところもあれば、
配給のおにぎりだけを食べているところもあると聞く。
自分たちで復興の手助けを始めている人もいれば、
こんなところでは生活できないじゃないか、と不平だけを言っているような人もいる。

水・牛乳・野菜を食べてもいいか不安だ。
だが、店頭からなくなっているわけでも、
価格が2倍、3倍、10倍になって手が届かなくなっているわけじゃない。
一方、農家は生活ができなくなるのだ。

あらることにはコストがかかる。
ノーリスクで得られるリターンは稀だし、多分あとで大コストを支払うことになるだろう。

気持ちをわからないわけではない。
だが、子供じゃないんだ。
大人なら、「文句」ばかり言うべきではあるまい。
大人なら、「不安だ、安心させて」と言うべきではあるまい。
大人なら、「どうしたらいいか、命令して」と言うべきではあるまい。
他の人が助けてあげよう、と思うのは、
「どうにかしろ」と声高に叫ぶ声に応えるからではなく、
黙って耐え、黙々と立ち向かっている姿に打たれるからではなかろうか…。
根底にある「同情」を打ち消すように働く言動と、
「同情」を行動に移させるように働く言動。

日本の政治家が信頼できなくなってきたのは、
「民主主義」の社会で、国民・有権者が「自立・自律」してないではなく、
「自立・自律」心を失ってきたからではないのか?
(しかも質(タチ)が悪いのは、本気で頼るのなら、
そのまんま東に170万人近くのものが投票することはあるまい。)


都市・東京に住む者たちの言動に比べ、
震災地に住む者たちの言動が「立派」であり、
世界から評価される原因は何か?
失われゆく「自立・自律」心であろう。

次の(来てほしくない)大災厄の時は、
世界の人々にどうふるまって見せることができるだろうか?

(大変な目に遭った人たちが、今なお避難している最中に、
その人たちも含めた批判は慎むべきであろうが、
主たる対象は、安全が守られている人たちであることを、
断っておきたい。
また、過去を避難する目的ではなく、
批判することから将来を考えるねらいで
述べている。)

2011年4月18日月曜日

三つの箱から世間を覗く(第55回)

「亡国への道、無責任の蔓延」

 数年前から、急に出てくるようになった漫才コンビ「ナイツ」風に。

「今日、tvで国会の予算中継やってましたね?」
「はいはい、あなた、そんなの見てるんですか?」
「そこで、自民党が菅首相を盛んに責めてたんです。
 ところで、あの人、表情悪いですねえ…。」
「そうですねぇ…、それで?」
「なぜ自民党が、そんなに責め立てるのか、疑問におもったので、
 調べてみたんです。
 みなさん、ヤホーってしってますか?」
「Yahoo位みなさんご存知ですよ。」
「そしたら、なんと!なんとですよ!
 戦後ずっと、ほんの2年前まで、自民党が政権与党だったんですねぇ…」
 

予算委員会で、自民党が「菅首相は初動ミスをした」と責めている。

原発は、国策だった。つまり、自民党政権が推進した。
事故を起こし大災厄をもたらした、福島第一原発の建設認可も自民党政権でなされた。

なぜ、起こる原因を作ったもの(自民党)が、
起こった後始末をしているもの(菅首相)の責任を声高に咎めだてをしているのだ?
なぜ、できるんだ?

わからない。

そして、メディアは、そのことを言わない。

菅首相も民主党も、表立っては、反論はできない。
それは、政権という「責任」を引き受けたからだ。
「事故」に「対応」する責任、とともに、
これまでの「国策」も引き受けたのだから…。

しかし、「危険」と言われてきた原発を「安全」と言って推進してきた自民党と、
原発の「安全」を職責としてきた原子力安全委員会と原子力安全・保安院の責任こそ最も重いのではないか?(TVでは誰も言わない。)

なのに、政府は東電を責め、
自民党は民主党を責める。

この醜さ!!!!!!!!!

まだまだ終息には遠い段階で「責任追及」は、慎重に臨むべきであろう。
だが、自民党は、「恥ずかしげもなく」菅総理を咎める。
おそらく、事故対応の段階で、その手際の悪さを責めることで、
自分たちの責任を転嫁しようとしているのではないか?
自分たちの「過ち・責任」を一切口にせずに、菅首相を責めるのだから、
この「推測」は間違ってはいるまい。

みんなは、腹が立たないのか!?
私は、この原発推進政策の責任を頬っ被りして、
民主党を責め、政権交代を口にする自民党には投票しないぞ!!

原発被災者たちはそうおもわないだろうなぁ…(気づかない?)
多分、君たちも、そう思わないだろうなぁ…。


なぜ、メディアはこのことを言わないのか?

それは、「危険な原発」を使ってでも、
「夏にクーラーにあたりながら、冷蔵庫で冷やしたビールを飲みたい」という、
国民(視聴者)と同じ穴のムジナであり、
オールナイトで、(ほとんどが)馬鹿番組を流し続けてきたからなぁ…。

国民は、「便利・快適」を「危険」と交換したことに、
まだ気付いていないのだから…。
(「経済効果」のために「自粛」を止めよ、という論理!!??)

避難せざるを得ない、本当に気の毒な原発周辺の住民だが、
「金(交付金)」と「「危険」と交換したこと」を自覚せず、
東京と東電のせいにする。

自分が「決めた・引き受けたこと・もの」に対する責任。
(政権、総理大臣の椅子、委員、原発ー快適さ、原発ー金など)
「起こしたこと」の責任(東電・自民党)。

「責任」とは難しい。
「取りたくない」ものに「とらせよう」とする。
重大な案件の責任問題を適当にやったら、どんなことになるか…。
6~9か月かかる原発事故の終息までに、まき散らされる放射能も怖いが、
この「無責任」はもっと恐ろしいのではないのか?


菅首相・民主党の「責任」は何か?
私は、その力量も覚悟もないままに、
「なりたい」だけで、「権力を握った」ことだ、と断じたい。

そして、この厳しい内外環境にある日本国家の運営を、
その民主党に、「信頼できない」けれど、「まぁ、任せてみよう」と思ってしまった、
日本国民の責任は…?

2011年4月17日日曜日

三つの箱から世間を覗く(第54回)

「東京に"支配された"東北」

「東京のために、福島(東北)が犠牲になった。
福島は、なんの恩恵も受けていない。」
という、(何度も聞いている)福島県民の声を、最初に持ってきて、
TBS「サンディ・モーニング」(2011.4.17)の「特集」が始まった。

「私は新潟出身。東北と同じように"裏日本"と軽侮されてきた。」
「東京に原発を。」
ついには、「田村麻呂、比羅夫に征伐された"東北"」という議論まで飛び出した。
「ああ、そう言われれば、そうだなぁ」という人も結構いるんじゃないだろうか?

「おいおい、"征伐"されたのは、"東北"ではなく"蝦夷"ではないのか?
それに、"征伐"されたのは、"東北(蝦夷)"だけではなく"南九州(熊襲)"もではないのか?」

「全国統一」を否定するなら、織田信長をなぜ英雄視するんだ?
家康の「全国統一」を否定する議論は聞かないぞ。

○福島は、「何の恩恵も受けず、一方的に東京の犠牲になった」という認識は「正しい」か?

原発は危険性が高いだけでなく、工場と違い雇用数もたいしたことがないという。
その代わりが「電源三法交付金」(下のコピペタ参照)である。
数百億から一千億円超が支払われる。勿論、消費者の電気料金が元だ。

つまり、東京(なぜ東京だけなんだ?)が福島に金を払って建設しているのだ。
「貰った実感がない」のは、使途に関心を持たず、無駄遣いしたからに他なるまい(資料参照)。
(払っている方も、日本人だから当然認識がない。)
金を貰いながら、無駄遣いをしておいて、文句は言う。
自分たちが、そんな見っとも無いことをし、言っていることに気付けない彼らの姿を映すTV。
なんと、無責任で、不人情なのか?
原発誘致をしたものや、金の使い方を決めたもの達にインタビューすべきではないのか?
原発立国を推進してきた自民党に聞くことはないのか?

「福島は東京の犠牲になった」という物言いは、ズルイ。
福島県の住民が東京の住民の犠牲になった、と言っているつもりはあるまい。
じゃ、「東京」とは何を指しているのか?
地方が中央に向ける感情を、「正義」の衣をまとわせ声高に、
被災者たちに言わせるのはもう止めたらどうだろうか?
そして、政府と東電という「加害者」vs我々国民「被害者」という図式にも乗るな!!

政府と東電の責任・罪は大きい、大き過ぎる。
だが、電気を大量に使って(30,40年代と比較せよ!)生活をしていたのは、
東京・福島をはじめ我々全国民なのだ!ということに気付くべきだ。

気付いていない。
だから、自粛は止めて金を使え、という。
原発による電気を使って…。

原発は「押し付けられた」ものではない。
自分たちが選んだことに気付かねばならない。

※今回の東日本大震災には関心を強く持ってきた。
三陸の津波被災者の悲しみと虚しさを思うと、
(想像しきれないだろうし)
ただ、黙るしかなく、
原発の災禍にあっている福島の人々の辛さと怒り・腹立たしさも
本当に申し訳ないが、(当事者でない限り)共有できない。
そんな立場のものが、被災者の言動について批判がましいことを言うのは、
日本人なら慎むべきであろう、ということはわかっているが、
復興・再建、日本の未来につながることは語らせてもらう。


「電源三法交付金」(資料)
 いわゆる電源三法とは、1974年6月3日に成立した次の3つの法律をさしています。

•電源開発促進税法
•電源開発促進対策特別会計法
•発電用施設周辺地域整備法
 電力会社は販売電力量に応じ、
1,000キロワットアワーにつき425円を、
電源開発促進税として国に納付しています(電源開発促進税法)。
このうち、 190円が電源立地勘定で、2
35円が電源多様化勘定(2003年10月法改正により「電源利用勘定」に名称変更)となります。
2003年予算で、この税の総額は4855億円になります。
(電源開発促進税率は、今後段階的に引き下げられる予定。)
 もちろん最終的にこの税金の負担は、消費者が電力料金に上乗せされて支払っています。
 納められた税金は、特別会計に組み込まれ、
発電所など関連施設の立地及び周辺市町村に対し交付金などの財源にあてられます
(電源開発促進対策特別会計法)。


個々の自治体にどれくらいの交付金が支払われるかというと、
出力135万kwの原発が建設される場合が、資源エネルギー庁のホームページに紹介されています。

 ◎建設費用は約4500億円。建設期間7年間、という前提
 ◎運転開始10年前から、10年間で391億円。
 ◎運転開始後10年間で固定資産税も入れて計502億円。

地域の豪華施設
 福島県東部の太平洋に面した浜通り地方のほぼ中央に位置する福島県双葉郡楢葉町。
人口8300人余りのこの町の町役場に隣接する三階建ての「町コミュニティセンター」(写真右)は、
収容人員八百人の大ホールを有する双葉郡内最大の文化施設です。
国の電源三法交付金を使って建設し1985年にオープンしました。
年間を通じてコンサートやミュージカル公演などが行われ、町民の文化活動の核になっています。
しかし、現在維持管理には年間七千万円ほどかかります。
催し物の主催者が支払う使用料だけではとてもまかない切れないようです。

 電源三法交付金は、発電所の立地を早めに進めることを大きな狙いとしているため、
発電所着工から短期間で自治体に支払われます。
三法交付金のうち、楢葉町がコミュニティセンター建設に活用した
「電源立地促進対策交付金」は発電所の着工から運転開始の五年目まで、
道路建設、教育文化施設などの整備に充てることができます。
町は同センター以外にも、陸上競技場や野球場などを配置した町総合グラウンド、
天神岬スポーツ公園などの施設を交付金でつくりました。
いずれの施設も今年間二千万円以上の維持管理費を必要としていますが、
それが自治体の財政を圧迫しています。
こうした状況は各地の立地自治体に共通しているようです。

以上は、http://www.nuketext.org/yasui_koufukin.html。
もっと色々と「面白い」ことが書いてある。


「Wiki」より
電源三法交付金の実情朝日新聞の調べ[2]によると、
2004年度(予算ベース)での電源三法交付金は約824億円に上るとされている。
うち、福島第一、第二原発を抱える福島県では約130億円、
柏崎刈羽原発を抱える新潟県では約121億円、
敦賀、美浜、大飯、高浜原発を抱える福井県では約113億円、
六ヶ所村核燃料再処理施設や放射性廃棄物管理施設を抱える青森県では約89億円となっている。

使用状況の実例は、(財)電源地域振興センターの「電源三法活用事例集」[3]に詳しく記載されている。

2011年4月16日土曜日

三つの箱から世間を覗く(第53回)

「"災禍の統一地方選"という表現」

二木がMCを務めている、「報道原人」(毎週土曜、AM10~、BS11)を見たことがあるだろうか。

ものすごく力を籠めて誕生した番組で、「横並び」否定、「独自性」を「売り」にしており、
TVでろくに扱われていないニュースを取り扱おう、というものらしい。

○そこでの、あるコーナーのタイトル。

だが、「災禍の統一地方選」て、なんだ?
統一地方選が災禍にあったのか?普通そう理解される表現だ。
「災禍の中での統一地方選」じゃないのか…?

ニュースは「内容」も当然重要だが、
正確な「タイトル」も大事だぞ。
内容の「意味づけ」なのだから。
このタイトルは読者をミスリードする第1歩となる。
言論人が、言葉を、表現を大切にしないとは…。

○小向日の「覚醒剤容疑、不起訴」を最初に取り上げた。
そして、「そもそも、覚醒剤容疑事件は取り上げるだけのものなのか?」という。
全くその通り。
だが、その結論なら、何度も何度も聞いてきた「TV批判」でしかない。
それなら、もっと「聞かせるべき情報」に時間を割いてくれ。

○「ベタ記事コーナー」で「自販機自粛」をとりあげた。

そこで、石原都知事を批判すること、批判すること。
「非常時には強力なリーダーシップが必要だ、
ということで指示が集まったのだろうが、
一体どこへ連れて行こうとしているのか、のチェックが必要だ」
というようなことを言っている。
「強力なリーダーシップの要望」がなぜ生まれれているのか、
の突っ込んだ分析が必要なのに、
石原批判にしか目が向かない。

そして、「道路工事をしている人たちがどれだけ助かっているか、知らんのか?
大体、自分で自販機で買ったことなどないのだろう。」と。
君たちは、石原の発言を「(そもそも、または電力不足時に、自販機が)本当に必要なのか?」という問いかけと受け取れぬほど「愚か」なのか?
(右翼の石原なんて(左翼の)我々は嫌いだ!絶対認めない!!というところか、と皮肉りたくなる。)

そして、石原の「自販機イラナイ」論に民主党が乗ったのを、非難している。
自民党推薦の石原を…、というのだ。
「良いこと」は「誰が言った」ことでもいいではないか!?
君たちは「言論人」か!?

不満はある。
なんか、だらだら喋ってるだけ、という「感じ」もしないわけではないが、
でも、突っ込みどころ満載で、しかも
1週間のできごとの再点検のチェックリストにはなる。
また、こういう番組・キャストを選ぶTV局を知り、考えることも大切だろう。

「お薦め」かも。

2011年4月15日金曜日

三つの箱から世間を覗く(第52回)

「二つの"科学的" ~"正確な情報"とは?(続)~」

(1)杉山君、コメントありがとう。
おもしろいね。
「信頼」と言う言葉ではなく「責任」の方がピンと来るとは…。

杉山君が「責任」にピンと来るのは、
この問題を考えてきており、
そこでのコンテキストに「責任」が据えられているからで、
「信頼」は位置を占めていないからであろう。
「同じ」ことを指している、と言えばそうかもしれぬ。
だが、「責任」と「信頼」は重なりつつも異なる。

少し「信頼できる情報」について言葉を足してみたい。
(「責任」については、またあらためて。)
「信頼できる情報」は、「信頼できる人から発信された情報」でなければならぬ。
一旦信頼を失った政府・東電から発せられる情報は、最初から「信頼できぬ情報」なのだ。

なぜか?
この問題について「嘘」をついた前科を持つわけではない。
政府、菅内閣は、その前にすでに「別件で信頼を失っている」のだ。
では、自民党内閣だったら信頼されるであろうか?
おそらく、というよりほぼ間違いなく「信頼されない」であろう。
それは、「自民党は全然反省してなく変わっていないから」ではなく、
「政府、国家」というものは、
「国民一人一人の生命・安全より、社会の秩序・安定を優先するものである」
と、我々は知っているからだ。

東電も、もちろん信頼できない。
東電は「原発は絶対安全」と言ってきたではないか?
「津波は想定外だった?」そんな言葉が言い訳になるのか?
事故発生後の対応はどうだ?
到底「信頼」できるものではない。

「信頼」とは、
「能力に対する信頼」と
「意図に対する信頼」があるという。

政府・国家には、「能力に対する信頼」はあっても、
「意図に対する信頼」は持てない(「ない」ではなかろう)。
民主党・菅には、「意図に対する信頼」は少しはあっても、
「能力に対する信頼」は絶望的に持てない。
東電には、「能力に対する信頼」も「意図に対する信頼」も、
もはや我々にはないのではないか?

私は、だから「正確な情報」であっても、
「信頼できぬものからの情報」はみんな「安心」して受け取れないのだ。
そもそも、「正確な情報(データ)」を与えられたって、
判断できる知識・情報は持ってなく、
いや、科学者も政府も持ち合わせてはいないのだ、
と言ってきた。
(下に、続く)

(2)2011.4.15 フジTV「とくダネ」。

各家庭では、「どう安全対策をしているか?」100人に聞きました。
「水道水を飲んでいますか?」の問に対して、
(A)ある男性は、「飲まないなんて"非科学的"だ」と答えていた。

「なるほど」である。
飲んでいる人の「論理」の一つはこれだろう。

(B)ところが、別のある女性はこういう。
「これまでだれも経験したことがないんでしょう?」

これをよんでいる人たちは、どちらに立つ?どちらを選ぶだろうか?

「うーん…」
科学とは「データ」に立つ。
(A)の男性は「測定されたデータ」に基づき、
そのデータが「正確」であればOKというものだろう。
(B)の女性は、「データ」つまり、「経験」。
いくら、「データ」が「正確」であろうが、
「安全ー危険」を判断する基準は「経験(実験も含む)」である。
その「経験」をだれもしていないのだから、
本当に「安全」といえるのか?
と言うのである。

政府が情報を出しても、多くの人が口々に「正確な情報を」という。
その背景には、この女性の論理が潜んでいるのではないだろうか?
「どれだけの量を被曝・摂取したら"危ない"のか?」がはっきりしていないのだ。
基準量を超えたというのに、「食べても構いません」………?

この「矛盾」の原因こそ、この女性の、
「これまでだれも経験したことがないんでしょう?」

2011年4月10日日曜日

三つの箱から世間を覗く(第51回)

「"オシャレ"と"ダサイ"」

入学の季節を迎えて、子供たちの姿をTVでよく見るようになっている。

どの子ども(小学生)もみな整った可愛い顔だちをしている。
いつからであろうか、都会の子供と田舎の子供の姿形に違いを見出すことができなくなってきたように感じる。
「昔」よくあったと言われる、洟を垂らしているような、(所謂)「ゴンタ顔」は見ることがない。

子供の顔だちが変わったように、大人の姿かたち・言葉遣いも、都鄙でたいした差が見られなくなったと思う。

だが、中高生を見ると、「あぁ…」である。
服装・髪型で、はっきりとした差が…。

その高校生が都会の大学に通いだし、半年もたつと…、
あーら、不思議。

「文化」は「形・型」でありながら、
単なる「形・型」で終わらない。
同じ「形・型(服装・髪型)」をとったものが、必ずしも同じには見えない。

その「形・型(服装・髪型)」が、
その人間の生活環境からうまれたものか、
生活環境にマッチしたものかどうか、
により、「オシャレにもなれば、ダサクもなる」側面がある。

だが、それだけではすまない。
「田舎」でもオシャレな人はいるのだから…。

となると、「形・型」と「心・センス(精神)」の問題か?

この稿は、「敢えて」ここまでにしよう。
いろんな見方・考え方ができるだろうし、
ある見方・考え方が、他の人を納得させることが難しいテーマのようだ。

ぜひ、みんなの意見を聞きたい。
(これまで、誰もコメントを書き込んでくれていない。
アンケートも一人しか応えてくれなくなった。
みなの意見・感想を聞いてから、また論じてみたい。)

三つの箱から世間を覗く(第50回)

「地震と"野球の開催"」

(1)「"春の甲子園"を開催すべきか?」

「自粛ムード」、「"娯楽"自粛」全体については、また語ることにして、
「"春の甲子園"の開催」の是非の議論、に関して論じたい。
(一応、書きおえて、プロ野球の方を書こうとして、置いておいたら、
甲子園は終わって1週間たち、ペナントも始まろうとしている。速い!!)

"春の甲子園"は、何のためにやるのか?
高校野球の理念・目的は「教育」ではないのか?

体育として教育の一環として「部活動」があり、
その全国大会として"甲子園"がある。

「開催すべきかどうか」の議論に、その観点がない!!
いくら実際は、その他のスポーツと同じ「娯楽」の側面が大きくなっていても、
「高校野球は教育の一環として行われる」ということを、忘れてはなるまい。

ただ、その"甲子園"が「お祭り」騒ぎとなり、
"甲子園"に出る高校は"生徒集め"に有利になり、
そのため、特待生制度などに批判の目が向けられる

スポーツ特待生などがいない公立校に応援が集まるのも、
「連帯責任」を取らされるのも、
「勝利至上主義」が排斥されるのも、
「高校野球=教育」だからであろう。

ついでに言えば、
日米安保も自衛隊などの議論においても「基本理念(そもそも何のために)」を無視した議論は、
過つ可能性につながるのではないか。


(2)「プロ野球の開幕日を延期すべきか?」

「浮かれていていいのか?」「娯楽は自粛せよ」という声がある。
選手(会)自らまでが、そのようなことを言っているようだ。

「おいおい、(あんたたち)プロ野球選手は「職業」としてやっているのではないんですか?」

延期・自粛の理由が「節電」にあるとしたら、話は難しくなる。
①ナイターは自粛せよ、と言いたいが、デーゲームでどれだけの集客数が見込めるか?
②デーゲームといっても、ドーム球場にしてしまったから、どちらにしても電気を食う。
 熱い夏をどうするのか?まさか、秋に開幕、というわけにはいくまい。

結局、エネルギー問題に対処せねばならなくなった時代に、
次々に「ドーム球場の建設」を推し進めた、「不明、不見識」のツケということか?

野球選手として生き、プロ野球見物を楽しむためには、
ナイターやドーム球場は必ず必要ではない、という「腹くくり」が必要ではないか?
「自粛する必要はない!誇りを持ってプレーしてほしい」
だが、エネルギーの多消費は「反社会的行為」である。
これは、今回の大震災による電力不足とは関係がなく、
現代社会の課題として「もともと」突きつけられていたことであることに気付くべきであろう。

三つの箱から世間を覗く(第49回)

「2011東京都知事選」

本日行われる都知事選について、書いてみたい。

今回の東京都知事選への関心は、次の二点。

①東国原英夫が何票獲得するか?
 彼は、「宮崎をどげんかせんといかん」と言って、「宮崎県のセールスマン」として活躍した。
 だが、宮崎県(政)自体を変えることはできなかった、というより、しようとしなかった。
 東京都も「どげんかせんといかん」点もあるだろうが、
 「セールスマン」は必要としていない。
 (オリンピック誘致のためには、セールスマンは必要でも、そのまんま東は国内しか通用しない。)
 
 マスコミはなぜ東をとりあげるのか?
 「都民は愚かだ」と思っているからか?
 それとも「マスコミが愚か」だからか?
 世間一般では、おそらく全国で一、二の「高民度」と思われているだろう「東京都民」の「愚かさ」を見てみたい。
 
②渡邉美樹は何位・何票獲得するか?
 自治体も「倒産」することがわかった(夕張市)。
 「倒産」を視野に入れ意思決定をする、
 マネジメントで一定の成功を収めた経営者にどれだけ期待するだろうか?
 「マネジメント(経営)」への認識を知りたい。
 
誰が新都知事になるのか、はさほど関心がない。
(私は都民ではないから…。
また、神奈川県知事に関しては、
神奈川県民だが共産党推薦以外の二人に積極的期待が持てない。)

一応、予想しておこう。

石原慎太郎 2,400,000 票
東国原英夫 1,300,000 票
渡邉美樹 1,000,000 票

【参考資料】2007年都知事選の結果 (Wikipedia)

1 ■石原慎太郎 現 2,811,486 51.06% ----
2 ■浅野史郎  新 1,693,323 30.75% 60.23%
3 ■吉田万三  新 629,549 11. 43% 22.39%
4 ■黒川紀章  新 159,126 2.89% 5.66% 没収
5 ■Dr.中松 新 85,946 1.56% 3.06% 没収

投票率は54.35%で、前回2003年の44.94%を上回った。
当日の有権者数は1023万8704人で投票総数は556万5127票となった[4]。
20代の投票率は33.45%だった[5]。

(ゼミ掲示板に)「(都知事選予想の)道を付けた」つもりだったが、続くものがいなかった。
私が、今さら勧進元を務めることもあるまい、と思い、こちらで扱うことにした。

2011年4月4日月曜日

三つの箱から世間を覗く(第48回)

「正確な情報」神話 ~東日本大震災⑤~

TVTV朝日の新番組「モーニングバード」(1)が始まった。

よしずみが「放射線」に関するレポートで、最後に、
「毒にも 薬にもなる」と書いてあるフリップを手にして、
「正確な情報が大切」と言っていた。
「正確な情報」が問題・重要ではないことは、
今回の地震・津波、原発事故でよーくわかったのではないだろうか?

想定外の地震の大きさ、津波の高さ。
津波により電源が失われるという「想定外」の事態。
(発電所が電源で困るなんて…)
「想定外」とは「思考しないことであり、情報は不要」
だから、「正確な情報」もくそもない。
津波の危険性は指摘されていた。「正確な情報」によって。
だが、その「正確な情報」は「想定外」とされた、という事実をどう受け止めるのか?

何ミリ・ベクレル、何マイクロ・シーベルトだから、
危険地帯から自主避難してください、
水を飲むことを控えてください。ただし飲んでも構いません、
基準値を超えた野菜ですが、食べても直ちに問題にはなりません。
みな「正確な情報」に基づいた判断のようだ。
だが、「正確な情報」を与えられた我々は、
不安に駆られただけであり、
買占めと買い控えに走っただけではないか?

高度な専門家(集団)によって成立している、
技術と組織の結合システムによって動かされている現代社会。
(役所の壊滅が今回の一つの特徴。)
部分的な「正確な情報」があったって、
全体・総体としてどうなのかの判断こそ決定的であり、それが本当に難しいのだ、
ということが今回の大災害("3.11"と呼びたい)が教えてくれたのではないか。

信じてもいない、「"正確な情報"神話」を持ち出して、
「思考停止」するのは、もう止めたらどうだろうか。
「情報産業」に携わる人々、メディア(企業とそこの人々)は、
ここに立たねば、「情報産業・情報提供者の"社会的責任"」を全うすることはできまい。
また、「情報社会」に生きている我々も、
この「正確な情報」神話から「解放」されないと「幸せ」にはなるまい。

「信頼できる情報」であり、
「信頼できる情報」には「正確な情報」も大切だが、
「信頼できる人間」に提供されることが重要だと思うのだが…。
(池上の解説を聞きたがり、ネットの"ガセ"が社会問題化している。)

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(1)どんな風に変わるのだろう?と「期待しないで」見た。
  期待しない態度は正解であった。
 「期待できない」という「想定は正確」であった。
 当のスタッフたちは、どういう「想定」をして新番組を作ったのだろうか?
 どういう「正確な情報」に基づいたのだろうか?
 

2011年4月3日日曜日

三つの箱から世間を覗く(第47回)

「リーダーの語り口~東日本大震災④~」

仏大統領サルコジが来日し、菅首相と共同会見をおこなった。
菅は「えー、あー、うー」を頻繁に挟みながら語る。
実に聞き苦しい。
サルコジの方は、フランス語を通訳したものが主に聞こえてくるので、
正確には判断できないが、どうも「あー、うー」は言っていないようだ。

「あー、うー」は、普段の会話などでは出てこない。
あらたまって、ひとに語りかけようとする時に出てくる。
スピーチではよく出てくるし、報告する時でも経験する。
何を語るかは決まっていても、
どう語るかまでつめていないと、どうしても出てくる。
考えながら語るからだ。
だから、原稿をしっかり作っていれば出てこない。

毎回、毎回、聞き苦しい「えー、あー、うー」を挟みながら語り続ける菅。
一向に改めようとしない。改まらない。

彼のメッセージはどれだけ相手・私たちに伝わるだろうか?
何を言っているかはわかる。
だが、「ああ、そうだなぁ…。」「わかった」にはならない。

聞き苦しい、美しくないからか?
それもあろうが、より以上に、
「伝えたい」「わかってもらいたい」という心・思いを感じないからではなかろうか。
リーダーが語っているのに…!!

菅や、下手くそなスピーチしかできない世のリーダー達よ。
三戸ゼミに入って、スピーチ大会でトレーニングしたらどうか?

みんなは、「えー、あー、うー」は除染されているだろうな?

2011年4月2日土曜日

三つの箱から世間を覗く(第46回)

「正直は無責任~東日本大震災③~」

民主党大塚耕平厚労相副大臣がTVで答えていた。
災害復興予算問題に関して、
竹中から、「復興税などもってのほか」と言われたが、
大塚は「税も含めて全ての方法を考えたい」という
当たり障りのない(つまり無内容)答を返し、
竹中に「あなたも閣僚経験がおありだから(こんな答えしかできないのは)おわかりでしょう。」と言う。

その通りだろう。
だが、私をはじめ全視聴者は心底がっかりした。
民主党の一員、菅内閣の一員ではなく、
国難に当たる一政治家、国会議員として、
信念、展望、対策を聞かせてほしかった。

「正直は無責任」という言葉が浮かんだ。

「責任」とは「困難な状況においても"準則"を守りきること」だとC.I.バーナードはいう。
大塚副大臣の立った"準則"は何だったのだろうか?

人はたった一つの準則しか持たないわけではない。
複数の"準則"を持って生活している。
その中には、自分で選んだものもあれば、
他者(親・先生・上司・社会)から与えられたものもある。
意識しているもの、積極的に守ろうとするものもあれば、そうじゃないものもある。
同一人物でも、ある立場、ある状況のとき、ある準則に立ち、
別の立場・状況のときはまた別の準則に立つ。

大塚副大臣は、党内・閣僚の一員の立場で「誠実(正直)」に応えようとしたのだろう。
聞く方も、民主党・閣僚の主要な一員としての大塚耕平に聞いたのだろう。

だが、聞く方(竹中も視聴者も)は決して納得できなかっただろう。
なぜだろうか?同じ立場の大塚耕平に聞いたのに…。

我々は、「何をしてくれるのか」を聞きたかった。
だが、彼は「これだけしかできません」を答えた。
外に視線・心が向かず、内に向いていればこのギャップが生まれよう。
公(国会議員・政治家)に立たず、私(民主党・菅内閣)に立てば、こうなろう。

なぜ、政治家が「滅私奉公」しなくなったのか?
(まぁ、「滅私奉公」自体を社会を挙げて否定してきたのだが…)

「正直」とは、「他者」に対するものではなかったか?
だが、この20年ほどは、「自分に正直」という言葉が生まれ、
メディアなどを通して、勧・薦められた。
(この流れと、「自利」に立つ「市場(原理)」がもてはやされるのは同じ流れであろう。)
「自分に正直」とは「我儘」「自己中」ということなのだが、
「我儘」も「お客の対する個別サービスを"我儘"」と呼び、「悪いこと」にしなくなった。
「自己中」も「ジコチュー」と表記されるようになった。
(このことについては、また論じてみたい。)
政治家という「公務員であり、かつ官僚=公務員の上に立つもの」が、
「私」に立ち、「公」を忘れても当然かもしれない。
東京電力の経営者の「無責任」も「自分に正直」な社会が生んだのであろう。

話が長くなってしまった。

「自分に正直」などと言い出せば、
「公」は廃れ、「責任ある立場のもの」が「私」に立ち
「無責任」な言動を「悪い」とは思えなくなろう。
大塚君だけじゃない。
彼の「親分」たる菅首相が「イラ菅」と呼ばれるのも、
「自分(の感情)に正直」だからだろう。 

2011年4月1日金曜日

三つに箱から世間を覗く(第45回)

「情報(データ)を出せ」という声~政治家の責任とは、政治家に求めるものは?~東日本②

情報(データ)を得たとしても、正確な判断なんてできるのだろうか?

聞けば(聞かされれば)、聞くほど「不安」になるだけではないか?

①もともと、専門家ですら「こうだ」と判断・断定できない。
「この限りにおいては」「一応はこうだが、………」としか、科学は言えないのだ。
条件次第で結論(食べてもいいかどうか、など)は変わる。
条件は、環境の変化(放射線がいつまで漏れ続けるのか、今後増えるのかどうか、など)で変わる。
だから、断言できない。すれば(科学的に、科学者として)「無責任」になる。

②政治家は(当然ながら)科学者ではない。
役割・職責・責任のあり方が違う。
彼らは「社会」を安定させ・発展させる責務を持つ。
人々の「安全→安心」を確保するのが責任だ。
「安心」なくして、「協力」はなく、「秩序」もない。

政治家は、「大丈夫です、安心してください」、「食べないでください、避難してください」と言わねばならぬ。
その判断のために専門家の意見を聞くことができる。
(そのための金も権限も与えられている。私たちには十分にない。
だから「何しているんだ!?」と我々は彼らを責める。)
だから、科学者・専門家の言ったことをそのまま伝えるのは「責任放棄」である。
「安全・安心か、安全・安心でないか」どちらかに決めて、メッセージとせねばならぬ。

もし「誤った」判断をしてしまったら?
その責任こそ「政治責任」であり、それは「結果責任」なのだ。
その責任から逃避するものを政治家にしてはならぬ。
ましてや、総理大臣になど絶対にしてはならぬ。
また、政治家だけではなく、あらゆる「組織のリーダー」にしてはなるまい。

③専門家・科学者でない我々は、情報(データ)を聞いたって、(きちんとした)判断ができるのか?
できないのに、聞けば(聞かされれば)、聞くほど「不安」になるだけではないか?
にも関わらず、「データを出せ(隠しているんじゃないか?)」「正確な情報を出せ」と
メディアがメディアを通して市民が声高に叫ぶ。

もう一度言おう。
「聞けば、聞くほど「不安」になるだけではないか?」
「聞きたいのは何か?」
聞きたいことを、「聞かせろ」と言うようにしないと、
いつまでも安心できぬどころか、「不安」をつのらせていくだけになろう。

政治家は「正確なこと」を言おう、ではなく、
「安心させる」ことを言おうとすべきであろう。
「食べても・飲んでも安全」か「食べると・飲むと危険」のどちらかか、
「避難した方がいい」か「避難しなくてもいい」のどちらかの、
メッセージにせねばならぬ。
「危ない」と言うことを懼れてはなるまい。
「食べるな・飲むな、逃げろ」とは、
「食べ・飲まなければ安全、逃げれば安全」ということなのだから。

「基準値を超えたので、控えた方がいいが、
食べても・飲んでも構わない。」
「自主的に避難してください」
は、何も言ってないのではなく、
「責任はあなたにあります。
食べても・飲んでも(逃げなくても)いいけど、
将来どうなるかはわかりませんよ。
自分で判断してください。」
と言っていることだ。
そう言われたら、不安になるだけではないか!?

三つの箱から世間を覗く(第44回)

「安全と安心 ~東日本大震災①~」

東日本大震災(東北地方太平洋地震)が起こってから、
この「三つの箱から」もストップしてきた。
私的事情もあったのだが、
被災者の質量の大きさ・思いを考えると、
また併せて起こった福島第一原子力発電所事故の重大性・緊迫性から、
控えてさせてもらってきた。
だが、アップこそしていないが、
この間、地震に関するもの・それ以外のテーマ・問題を扱ったものを何本か書いていた。
今後のおおまかな展望が明らかになり、
世間・TVも何か「日常」に戻って来ているし、
4/1新年度を迎えたこともある。
再開したい。

だが、どのテーマから語りはじめるか、は難しいところで、
「"想定外"と対策」、「天災と人災」辺りが妥当なところなのだろうが、
書いたものの、「言いつくした」観がイマイチなので、
本日書いたものからリスタートしよう。

フランスから原発事故のための機材を借りるという。
防護服や無人機器などにより、現場の様子もわかるようになり、
危険なところの作業も可能となるという。

ところで、なぜ東電・日本は持ってないんだろうか?
(どうも、持っていたらしいが、使っていないらしい。)
同じ原発大国フランスは持っているというのに…。

「安全です、安心してください」と言っているからなぁ…。
本当に(完全に)安全ではない、「絶対に安全」などあるはずがないこと位わかっている。
だが、「絶対安全は保障できません」とは言えない。
代わりに「大丈夫なように設計・製造・建設しています」と言う。
想定範囲内で「大丈夫・安全」なのだが、
周りから「大丈夫か?安全か?」と言われれば、
「大丈夫です。安全です」と答えてきた。答えるしかなかった。
自分でも「安全」と思わねばやってこれないし、
「安全」と答え続ければ、「安心」と思い込むようになる。

「安全神話」なぞ、新潟柏原原発や福島第一原発でとうに崩壊しているのに、
「安全ではない」と言わなく、言えなくなってしまった。
「安全ではない」言えなくても、言わなくても、
「安全です」、「安心してください」と言い続けていると、
「安全だ」と自分でも思うようになってしまっても、驚くにはあたるまい。

「安全じゃない」と言えなくなり、「安全だ」と思うようになると、
(こっそりとでも)現状以上の安全策はとろうと思わなくなり、
たとえ、とる必要が出てきても、
「こういう安全策を取ります(追加します)」と言えば、
「じゃ、今までは(十分に)安全じゃなかったのか?安全だと言ってきたじゃないか!?」
と思わせたり、言われたりし、
「その追加的安全策をとっても、まだ安全じゃないだろ?」
と、思わせたり、言われるようになる。
だから、言うことができないだけじゃなく、
より安全にすることもできなくなったのであろう。

最初に嘘を言ったら、その後本当のことをいうことができなくなるように、
最初に「(絶対)安全です」と言ったら、
そのあと「危険です」どころか、「より安全にします」とさえ言えなくなる。
「○○神話」とよく聞くが、その危険性は認識されていると思えない。

電力業界・電力会社だけではあるまい。
「○○神話」がないように見える業界・企業であっても、
「生産・製造」や「提供する商品の品質」が存在する限り、
「安全・安心」と無関係ではありえないのだ。
現代社会に生きる者は、「生産者」と「消費者」、そして「利害関係者」の観点を忘れることはできまい。

東電・電力業界以外の人たちにとって「他山の石」とならねばならぬのに、
この事件から「学ぼう」とどれだけ思って、実行しているだろうか?
どうも、被害にあった工場・営業所をどうしよう、
停電で大変だ、に終始していて、
どこか「対岸の火事」だと思っているように感じる。

だから、東京電力は、
JR西の福知山線事故や三菱ふそうバス・トラックのリコール隠しや、
刈羽原発事故からさえ学べずに、
今回の事故を引き起こしてしまったのではないだろうか?
福島原発事故は「絶対安全」では「絶対にない」ものを扱い、
その「危険性」は比類のないものである、という特殊性がある。
だから「学べなかった」面もあるように思える。
根本的な「誤り」に立っていては、何物も無益であり、無理であろうから。
だが、多くの事業・業種は、
「学ぶ」ことができ、
「学ば」ねばならず、
「学べ」ば、避けられるのではないだろうか?

卒業生も現役生も、
この未曾有の大事故・大事件から学ぼうとする姿勢がどれだけあるのかが、不安になった。
だから、最後に、くどく、くどく述べてしまった…。
学んで欲しい。
「明日は我が身」を否定できる会社・業界は少ないのではあるまいか。