2011年5月28日土曜日

三つの箱から世間を覗く(第89回)

「AKB48の総選挙」

○AKB48の総選挙がまた行われる、とTVが騒いでいた。
選挙権をCDを買うと得られるという。
1枚買うと1票得られるから、一人で何十枚も買うものもいるという。
(一人で1,000枚買った若者(bakamono?)がTVで取り上げられていた。
彼の部屋は、箱に入ったままのCDが何十箱もあった。)

○何に興味を持ち、何に金を使うかは自由じゃないか、とひとは言う。
だが、「善悪」「賢愚」は問うに値しないことだろうか?
若者が貴重な時間を割いて(勉強等ではなくバイトで)得た金が、
そのようなものに使われる。

人は、与えられた選択肢の中から選択し、
また、その社会・集団の価値観に従って選択する。
「AKB48の総選挙」というイベントの参加権ならまだしも、
CD1枚(2,500円位?)につき1票の投票権を売りつける。
聞くだけなら1枚、最近のようにコレクションとしてもせいぜい2枚しか売れないところを、
何枚、何十枚、何百枚と買わせる。
自分のこのみのアイドルをスターダムに押し上げる、
パトロンとしての行為を普通の若者に与える「革命的意義」がある、
と見ることも可能であるが、
「革命」だからといって、「善」である保証はない。

彼は何十枚、何百枚買って、(金の使い方として)一時的に満足しようとも、
自分の未来を切り開くための投資にはなるまい。
だから、十年、二十年、または三十年たった時、
その何十枚、何百枚の(同じ)CDを見て、
満足するだろうか?後悔しないだろうか?

いや、たとえ、本人が後悔しなくとも、
若者の未来の投資として、貴重な時間と金を本人・親・社会は注ぎ込む。
私は、その期待に応えることを仕事・職業としている。

その若者を、かくも愚かな(「と私は思う」、と断らねばならぬ「愚かな」社会)行為に駆り立てる。
(いくら合法的であっても)許される行為なのであろうか?

○ラジオでも取り上げていた。
5/26(木)TBSラジオ「荒川強啓デイ・キャッチ」で、
山田五郎は、「聞きもしないCDを一人が何十枚も買うとなった時、
「売上ランキング」に意味がなくなる。」批判していた。
(事実、宇多田を抜いて1位となった!?)

しかし、荒川強啓は「うまいことを考えますねぇ…」というばかりである。
確かに、ほとんどのものが。秋元康の商売のうまさに感心しているであろう。

「自分が応援するアイドルをスターダムに押し上げる快感・満足を与える」
ことを商品化したことは「革命的」であろう。
「握手券」「投票券」を付けることにより、そのおまけ目当てで、複数買わせる。
かつての「ビックリマンチョコ」の商法と同じだ。

「ビックリマンチョコ」の商法は、
シールをとった後のチョコ自体が道端に捨てられていたりして、
(本当に捨てられていたかどうか?TVだから…。)
社会的に非難されたのではなかったか?

子供相手なら許されないが、若者相手ならいいのか?

本人も・誰も気付かなかった「欲望」に応える。
持っていなかった「欲望」を持たせる。
その「欲望」を満足させることまで「善」とするが、
「悪」ではないのか?

(私は最初、この文を、「天国と極楽」のところで、
AKB48関係者の誰が天国・極楽に、誰が地獄に、
という問題として取り扱おうか、と考えていたが、
ひとの死・不幸を予想・願うようなものは、
受け入れがたいのではないか、と思い、この形で論じている。)

○何が「幸福」、何が「満足」かなど、絶対的なものなどない、と言う。
何が「愚か」かなど、決められないじゃないか!と言う。
そのくせ、島田紳助の番組やQサマなどを見れば、
「賢い」は客観的にある、と思っているようだ。
しかし、その「賢い」は、
「知識が多い」=クイズい強い。
「テストの点が高い」
「金儲けがうまい」
「他者に先んずる(出し抜くでも可)」
でしかない!!!!!!!!!!!

全体的・総体的・社会的ではなく部分的・個人的に、
長期的ではなく、その時・短期的に、
「合目的的」であれば「賢い」という。
そう、「市場原理」「市場社会」の「経済人」だ。

「常識」「伝統」「倫理」を大切にするものは、「囚われている」とし、
合法的であれば、否定・破壊して「結果を出す」もの(イノベータ―)は「賢い(優れている)」という。
(そのくせ、驕ると、寄ってたかって「犯罪者」に仕立て上げる。
ホリエモンや村上のように…。)

社会は「法」と「規則」だけでは秩序化できない。
常識や、倫理・道徳という社会で共有された価値観・美意識が必要である。
市場社会は背後に(同時に)市民社会を有し、そこには宗教と都市共同体の伝統・慣習という、
共有された価値観・美意識が必要である。
現代日本は、その必要不可欠な価値観・美意識を「目の敵にする」かのようだ。

「しなくてもよいことはしない」
その判断には「見識」がいる。
「儲かるとわかってもしない」
その決定には「意志(覚悟)」がいる。

「豊かな社会」は「金にあくせくしない社会」であろう。
だが、現実は、「金をどれだけ儲けたか」で評価される社会となっているようだ。

三つの箱から世間を覗く(第88回)

「人の話を聞く」とは

会社勤めをしている人は、
毎朝10時からのフジTV「知りたがり」を見ることはないだろうだろうなぁ…。

その日10時までの各チャンネルのニュースショーをまとめた番組。
「なるほど!」各チャンネルをザッピングしている私などは、
感心し、ありがたい番組だ。
その日の共通テーマについての解説もなかなかいい。

この「知りたがり」のコメンテーターも考えられている。
いわゆる「オバサン」中心、
30~60代女性という視聴者の代表3人を
コメンテーターにして画面右側に、机なしで椅子に座らせている。

通常レポーター・解説者のあとに、コメンテーターに語らせる。
だが、この番組は、解説者(「わかる人」と呼ばれている)の解説中に
「オバサン」たちに相槌を打ったり、質問したり、口を挟ませる。
今日は、解説中に話の流れと無関係に、目立つ声で笑った。

おばさんたちは、よくアイヅチを打ち、笑う。
講演では実にありがたい聞き手である。

私が相手にしているのは…。
わかったのか/わからないのか、面白いのか/ツマラナイのか、
講義を聞いている学生は、表情も変えず、黙ったまま。
聞いているいるのか/いないのか、わからない相手に話すのは、本当にツライ!
だから、おばさんたちは、話し手にとっては「神様」だと思う。

だが、だが、彼女たちは、レスポンスしているのだが、
はたして、「聞いて」いるのだろうか?

反応はしているのだが…。
「聞いて」頭に浮かんだことを口にするだけ。
それが、「そうそう」「まあ」「へー」というアイヅチに。
ピンとこなければ、質問に。

「結論」が問題である話は、最後まで聞かねばならない。
そして結論が納得できるかどうかが大事で、
「納得」するために「必要なこと」を質問する。
だから、基本的には最後まで話を聞く。


話には「聞く」と「聴く」があり、
こういうことなんだろう。

私の話は、普段から「聴く」ことを要求する話であり、
しかも、概念を説明するためのの話が挿入されたり、
イメージ連鎖により「尻取り話」となる傾向がある。

聞かされている人、すまない。
途中で適当に口を挟んでくれ。
質問でもいい。話の内容に関する自分の意見でもいい。

(蛇足だが)途中で口を挟みにくいならば、
最後にどんな感想を言おうかを、考えながら聞くようにしてはどうだろうか?
それが「聴く」話の「聴き方」であろう。
そのような「聴き手」を相手に話すことは、
快感であり、幸福である。

2011年5月27日金曜日

三つの箱から世間を覗く(第87回)

「大人の受け答えと大人げない」

橋下大阪府知事が、「県議の数が多すぎる。鳥取県など6人でいい。」などと言った。
これに対して、鳥取県知事が、「大阪の人が鳥取県の自治について議論するのは差し出がましい。大きなお世話だ」
と不快感をあらわにした、という。
橋下は、一生懸命でなかなかよくやっているが、些か子供っぽく、失言が多いというのが大方の認識だろう。
今回の「人口10万人当たり県議1名」という案は一つの聞くべき考えであろうが、
「例えば」と言って鳥取県の名前を出すのは、いかにも軽はずみで、思慮に欠ける発言であろう。

橋下府知事のような「子供っぽい(大人じゃない)」人物の発言に対して、
鳥取県知事の反応は、いかにも「大人げない」、のではあるまいか。

相手は悪気があったわけではないのは明らかなのだから、
笑いながら、嗜めるような発言ができないのだろうか?
「鳥取の名前を出す位なら、滋賀や奈良を…」と口走るに至っては、情けないと言わざるを得まい。
自県の名が出されて不愉快なら、滋賀や奈良と言うべきではなかろう。
同じレベルに降りて、どうするんだ?

菅といい橋下といい、ああ石原都知事もいた、行政の長になったものが、
かくも「大人げなく」なったのはどういうことだろうか?
いや、彼らほど「子供っぽく」はないが、他の政治家も社長さんたちも「大人の貫禄」は感じさせてくれない。
礼儀にしたって、街中での、社外・仕事外での、50、60代の大人、特に男は、若者たちより劣るのではないか?

「若さ」を無条件に礼賛し、憧れ、
「貫禄をメタボ」といい、「熟練・経験よりイノベーション」を重要視したことにより、
「大人」という概念が薄れ、失われ、
大人が「大人」ではなくなってしまったなぁ…。

麻生、鳩山、菅、そして小泉だって、最近の総理大臣は皆大人ではない。
それが、政治に対する「不信感」の基底にあろう。
「大人」の恐ろしさを感じるようだったら、
メディアも国民も、今のように馬鹿にするのではなく、反感・憎悪を感じているのではないか?

アメリカも同じ傾向があるようだが、
日本は、世界でダントツに「大人」がいなくなった社会ではあるまいか?

かくいう私も他人事ではない。
「大人の振る舞い、大人の受け答え」ができないなぁ…。

三つの箱から世間を覗く(第86回)

「注水中断(命令)はあったか、なかったか?事件 ~その2~」

誰の指示で55分間の注水中断がなされたのか?
で、国会、TVでワーワー騒ぎ、
斑目安全委員長が言った・言わない、が問題になった。

発表した方が得か?
発表するなら、いつしたら得か?
何を選んで、何を捨てて、
どういう形で(記者会見か、文書か、リークか)発表した方が得か?
どういう表現(言葉・文章で)したら得か?

いや、「得か?」じゃなく、「責められないか?」だろう。
発表したら、「何していたんだ、とか今まで隠していたんだろう」と責められるのは嫌だ、
と思っているんだろうなぁ…。
政府も保安院も東電もその観点だけで発表しているのではないか、と疑わざるを得ない。

こうなったら、完全に信用・信頼できまい。
必要な能力と責任感を持ち得ていない、と疑われている
菅政権、政府、東電であることが明らかなのだが、
正直・誠実を失い、疑われては、完全に終わりであろう。
一刻も早く、政権交代、安全委と保安院のお役御免、東電以外による対応が求められる。

2011年5月23日月曜日

三つの箱から世間を覗く(第85回)

「海水注入55分間の中断を巡って」

菅首相が「福島原発1号炉の海水注入の中止を命じたため、
55分間の中断が生じ、その間燃料棒の溶融が進んだのではないか?」
と、予算委員会で谷垣自民党総裁が質したところ、
菅首相は、「そのような事実はなかった、何よりも海水注入を聞いていない。」と答えている。

谷垣は、「なかった」と聞いて、それ以上、この問題の追及をしていないようだが、
(TV局は、それ以後の質疑を全く報じないので残念ながらわからない。)

「何よりも海水注入を聞いていない。」という答えに対して、
○では、誰が海水注入を決定・命じたのか?
○そのことを調べたのか?
○「聞いていない」と言うが、聞いていなくてはいけないのではないか?
 自分のところまで情報があがっていないことを、調査・問題にしたのか?
○そもそも、海水注入を決定したのは、現場の所長だという。
 これは、最高責任者たる総理が決断すべきことではなかったのか?
○以上の諸点をきちんと確認していないとしたら、
 あなたは必要な情報を持たずに、適確な決定ができない、
 ということになるのではないか?
 あなたは、この原発事故対策の最高責任者としては不適格である!

と、なぜたたみ掛け、追及していかないのか?

形としては、「責任追及」をしているようだが、
動機・内実は「あら捜し、咎めだて」なのだろう。

何があったのか?何をしたのか?という「事実」を明らかにすることを求めていない。
「事実」を明らかにすることにより、自ずから「責任問題」が明らかになるのではないか?

相手を「否定する」ことだけに終始する姿勢からは、
「責任問題」は明らかにならず、
また、そのような人間が、きちんと「責任」をとることができるとは思えないのだが…。

この「あら捜し、咎めだて」は、野党だけでなく、
事実を明らかにすることが仕事のマスコミ(特にTV)もまったく同じだ。
「あら捜し、咎めだて」されるばかりだから、
政府も東電も隠す。

そして、TVは事実を明らかにせよ、と言う…。

三つの箱から世間を覗く(第84回)

「児玉清と長門裕之」

長門裕之の訃報に絡めて、彼の生き方とTVの取り上げ方について述べた。

児玉清の息子が言う。
彼は家族には、「(自分の仕事に)自信がない」と言っていた。

「畏怖心」「畏れ、慎み」が言わせた言葉ではないか?
若手の俳優に対するアドバイスや、
中学時代の友人達との交流のあり方を聞くと、
彼の知性による配慮というものを感じる。

彼が言った言葉が紹介された。
「亡くなった人に贈るものは、悲しみではなく、感謝だ。」

「なるほど」と大きく頷かせる言葉じゃないか?

だが、周りの人々に、感謝されぬ生き方をしていては、
悲しんでももらえまい。
この言葉は、残されたものに求められる姿勢と、
逝くもの(の生前の生き方)に求められる姿勢の両面があるなぁ…。
そして、難しい…。

本を読むことが本当に好きだったという。
書評番組を持てるというのは相当のものだろう。
棺にも読みかけの洋書を含めた数冊の本が入れられたという。

感性と知性で自分を作り上げていったのではないか、と感じる。
ただ、両方を持っている、というのではなく、
知性で感性の方向性を定め、
その感性でキャッチしたものを知性で自己のものとする。
勿論、児玉清に関してTV以上の情報はない。
(博多華丸の「その通り!」「アタック・チャンス!」が浮かぶ、
と言えば、その程度はわかってもらえよう。)

これに比べて、長門裕之の「幼さ」はどうか!
俳優としては評価はされているようだから、人並み以上の感性を持っているのであろう。
だが、その振る舞いは、妻や多くの人を傷つけた本を出したことを筆頭に、
枚挙の暇がなさそうである。

(「感性」の差は別にして)
二人の差は「知性」の差ではないだろうか?
人を見る、自分を見る(顧みる)時に、
「知性」のフィルターを通すこと、
「知性」のコントロールが大切なことを、教えてくれているのではないだろうか。
「知性」が、児玉清に「配慮、畏れ、慎み」を与えていたのではないだろうか。

同じ77歳で逝った二人の生き方。
考えさせられる。

2011年5月22日日曜日

三つの箱から世間を覗く(第83回)

「長門裕之の訃報」

長門裕之が逝った。
キャリアを簡単に紹介した他、
流された映像の3/4は、妻・南田洋子を看護するものだ。

○女優の老いさらばえただけでなく、演技ではない姿を、
(多分)理解して同意していないものを、撮り、流す。
「妻への贖罪」だの、「人間は誰でも老いる。その老いの姿を。」と、言う。
ナルシズムじゃないか!
浮気のし放題で、好き勝手をやり、妻に苦労を掛け通しだった。
その妻を「贖罪」と「老い」の手段・題材に使う。

献身的な妻への看護を「立派」とTVは言った。
金はたっぷり持っているのだから、
映像に映し出される以外の看護は、他人に任せることは可能だ。
(その事実を私は確認していないが)

私は、これほど身勝手な男の姿を世間が賛美するのを何年か前に見て、
何とも言えぬ不快感を感じた。
二人が映っているが、映されているのがわかっているのは長門一人。
そして、コメントされるのも長門一人。
(南田洋子は長門に看護されている対象としてのみ語られている。)


○今回、長門裕之の訃報を伝えるにあたって、
この「無残で、身勝手な、他人に見せるべきではない(と、私は思う)」映像、
ほぼそれだけで長門は「紹介」された。
これまで、このように釈然とせず、逝ったものを悼めない訃報報道はかつてなかった。

彼は、映画俳優であり、優れた作品もいくつもあろう。それを、作品名を流すだけ…。
映像の時間の配分から見れば、長門裕之は俳優ではなく愛妻家(献身的看護をした夫)であった。

美人女優の「老いさらばえた姿」の方が、見たいと思う視聴者が多い、という判断と、
この「刺激的なもの」を自分たちも見たいと番組製作者は思ったのではないか?

長門の「(愚かなナルシズムによる)看護フィルム」は、
南田洋子を2度、長門裕之を1度(2度)「辱めた」。
TVは、長門の「愚かさ」を利用した。
このフィルムで1回商売したのだから、
今度は、「情け」を持ってやってほしかったなぁ…。

(※)このフィルムに関する是非はいろいろあるかと思う。
だが、南田洋子の立場に立てば、
今回の訃報の流し方を見れば、
私は「愚行」だと思わざるをえない。

2011年5月20日金曜日

三つの箱から世間を覗く(第82回)

「企業の責任と行政の責任 ~焼肉屋食中毒事件④~」

この事件が、まだニュースで取り扱われている。
「食べ物」しかも、みんな大好き「焼肉屋」のネタだもんな。

ここ2,3日の議論は「生肉を"野放し"にしている行政の責任」だ。

「衛生基準」がある。
ほとんどの店は、「衛生基準」を守ってきたと思う(そんなに事故が起こっていない)。
事故を起こしたらどうなるか、が「わかっている(大ダメージを受ける)」からだ。
今度、その「当たり前のことがわかっていないヤツ」がしでかした。

「その「責任」は「行政」にある。」
「厚労省は、何しているんだ!厳しい基準を作れ!」
の大合唱だ。

「衛生基準」に不備があったのか?
「衛生基準」通りにやっていたにも関わらず、事故が起こったのか?
それなら、わかる。

だが、
生食可能の肉を「お墨付きの生食用」として流通させよ、という。
「生食可能の肉」を「衛生基準」に反した調理の仕方をすればどうなるか?

「罰則規定」がないじゃないか?と言う。
「罰則規定」なんて、儲けに比べりゃ、ばれなきゃいいんだ、
というやつには「へのツッパリ」にもなるまい。
「O111による食中毒」なぞ焼き肉えびすの勘坂社長にとっては「想定外」だった。
「罰則規定」があってもなくても同じではなかったか?

コンプライアンス(だけ)で「健全な経営」が保証されるのか?
「安全なものを提供しなければ…」
「プロとして、恥ずかしい…」
「我々は、食べ物を扱っているのだ」という
「責任感」「倫理観」が、多くの「食べ物屋」を支えているのではないか?

蓮舫が「生でも大丈夫ですか?」と店に聞いてくれ、と言う。
「大丈夫じゃありません」と答える店があるのか?
そんなことを聞かれた店・料理人は、どう思うか?
倫理観・責任感は低くなるだけじゃないか?

人間(の倫理観・責任感)を信頼できない社会、
罰則があるから「悪いことをしない」社会、
一々「大丈夫か」をたずねる社会、
私は、そんな社会には住みたくない!!

だが、TV(局とコメンテーター)や街の人、蓮舫は、
そういう社会に住みたいらしい…。

三つの箱から世間を覗く(第81回)

「太田君のコメントに感謝を籠めて答えたい②」

4月11日の「三つに箱から世間を覗く(第45回)」
「情報(データ)を出せ」という声
~政治家の責任とは、政治家に求めるものは?~東日本大震災②」

に、太田君がコメントを付けてくれている。

まず、引用させてもらう。

太田(3期生)です。
”政治家は「正確なこと」を言おう、ではなく、「安心させる」ことを
言おうとすべきであろう。”
とのご指摘を読み、この「政治家」の部分には「上司」でも「会社」でも
「親」でも当てはまると思いながら読みました。

”科学者・専門家の言ったことをそのまま伝えるのは「責任放棄」である。
「安全・安心か、安全・安心でないか」どちらかに決めて、メッセージと
せねばならぬ。”
とのご指摘も、本当に耳に痛く突き刺さります。

私も震災の起きた3月11日に会社で勤務していたのですが、
○余震が断続的に起こっている。
○電車の運行が止まっている。
○道路はひどく渋滞している。
という状況の中で従業員から帰宅して良いか否かを問われたときに、十分な
回答をしないばかりか、政府は無理な帰宅を控えるように呼びかけている
旨の返答しかできませんでした。
これは政府の発表をそのまま伝える「責任放棄」に他ならず、結果責任を
負うだけの覚悟ができていない情けない姿勢です。

枝野官房長官は分かり易くも「まず言質を取られることのない答弁」を
繰り返していましたが、それに便乗していたのでは同じく無責任であり、
聞き手がすぐに行動に移せるだけの具体性を有する情報発信をしなければ
ならないと反省しました。(2011年5月16日3:42)

○太田君に応えたい。
「これは政府の発表をそのまま伝える「責任放棄」に他ならず、結果責任を
負うだけの覚悟ができていない情けない姿勢です。」
と、君は言う。
だが、「已むを得まい」。
皆は、同じ立場ならどうする?何ができる?

私は、こう書いていたはずだ。
「政治家は(当然ながら)科学者ではない。
役割・職責・責任のあり方が違う。
彼らは「社会」を安定させ・発展させる責務を持つ。
人々の「安全→安心」を確保するのが責任だ。
「安心」なくして、「協力」はなく、「秩序」もない。

政治家は、「大丈夫です、安心してください」、「食べないでください、避難してください」と言わねばならぬ。
その判断のために専門家の意見を聞くことができる。
(そのための金も権限も与えられている。私たちには十分にない。
だから「何しているんだ!?」と我々は彼らを責める。)
だから、科学者・専門家の言ったことをそのまま伝えるのは「責任放棄」である。
「安全・安心か、安全・安心でないか」どちらかに決めて、メッセージとせねばならぬ。」

「大丈夫かどうか」の判断材料を持たなければ、答えることはできない。
君は、政府発表以上の情報を持ち得なかった。
そして、「帰宅してもよいか?」の問に、「帰るな!」という指示・命令を出す権限もないはずだ。
その時にわかる情報を提供し、判断は個々に委ねるしかないはずだ。

「職務を果たすために必要な権限を与えられていない者に、責任は問えない」のではないか?

だが、「已むを得ない」ことであっても、
自分で「納得」できず、「自責・情けなさ」を感じるであろう。

その気持ちに深く「共感」する。
その気持ち、責任感なきものには、仕事を任せることはできない。
その気持ちを持たぬものに、成長はあるまい。

それに対する、一つの「答」を書きたい。
(バーナードの「権限受容説」「リーダーシップ」を思い出して欲しい。)

『晏子』は、宮城谷昌光作品の中で、私のNo.1だ。
晏嬰の父晏弱がすばらしい。

「正解がわからない時」、
「間違った答を出すと損壊・被害が出る時」
どうすれば良いか?
「人の信頼を獲得するには?」

その答えは、この名作にあると思う。
(書きたいことが、いろいろあるので、これ以上は述べないが、
この名作を読んで、語りたくなったものが出てきたら、
一緒に読み、語り合おう。)

三つの箱から世間を覗く(第80回)

「東日本大震災関連で2題」

○「工程表に変更なし」に、なぜそんなに文句をつけるのか?

 福島1号炉は、実はメルトダウンしていた。
 当初通りには冷却はできない、という。

 それに対して、東電は「工程表に変更なし」と発表したところ、
 TVは大ブーイング。

 ・元々、現状把握(建屋内の状況など)が不十分なのだから、
 この工程表は「目安」であることは、(暗黙の)承知のことではなかったのか?
  ・瓦礫の撤去や、建屋内の状況把握などが遅い!
  できていないうちの工程表発表は?
  よいう、批判なら理解できる。
 ・この後でも、何が出てくるかわからない。
  「想定外」はあるのだから、一々煩く言ってどうするんだ?
 ・避難者達の心情に配慮したら、少しでも早く「展望」を示す必要があったことは、
  理解してやるべきではないのか? 
 ・一刻も早く自宅にもどりたいであろう避難民のためにも、
  可能な限り、工程表通りにやります、は誉めるべきではないのか?

 菅首相と同じように、一旦信頼を失うと、
 何をやっても、すべてケチがつけられる。

 だが、励ましてやらないと、頑張れないぜ…。

○「海の瓦礫を撤去する作業に国は金(手当)を出している。
大変結構なことじゃないか?
網を入れても、網に瓦礫が入って、漁にならなくて困っていると聞く。

だが、瓦礫撤去の手当てを貰って作業をしている時に、
一緒に魚が網に入っても、その魚を売ることはできないという。
売ると手当は出さないのだ!?

小役人や法匪という言葉が浮かぶ。
こういう時こそ、政治家の出番じゃないのか?

2011年5月17日火曜日

三つの箱から世間を覗く(第79回)

「太田君のコメントに感謝を籠めて答えたい①」

○4月11日の「三つに箱から世間を覗く(第45回)」
「情報(データ)を出せ」という声
~政治家の責任とは、政治家に求めるものは?~東日本大震災②」

に、太田君がコメントを付けてくれている。

その内容については、次回書きたい。
まず、この話から。

○太田君の凄さ!

4/11のblogに5/16にコメントを付けてくれている!
4月4日の(第48回)「正確な情報」神話 ~東日本大震災⑤~にも、
5/16にコメントを付けてくれている!

おそらく「コメント完クリ悲願」を立てているのだろう?!

読むだけでなく、コメントを(必ず)書けば、
①その問に対する自分の考えを確認することができる
②その問に対する自分の答えを持つことができる
③読み返すことにより、その時と今の答を対比できる

このように「効用」は大だが、なかなか実行はしがたい。

②が「大変」だから、コメントを書こうと思っても、なかなか…。

①が「大したことがない」、
「まだぼんやりしている」、
「答が複数浮かんで決められない」、
から、書けない、書かないのだが、

だが、③の「効用」を考えると、
①が未熟でも、全く構わないのではないのか?
webだと「書き足し、書き直し」も簡単だから、
「①→③→②」②のための①③を心がける。

だから、彼は「完クリ」を目指す!

blogのテーマを考えたことがなければ、
ただ、読んだだけでは、
「大した答」は期待できない。

「問」を持たねば、人はその問いに関する「情報」をスルーする。
どんなに「重要、大切な問題」でも、
「問」として持っていなければ、
「答」はない!

「必ず答える」ようにするということは、
全ての「問」に(自分の解答の内容に一旦目をつぶってでも)
答える、ということであり、
全ての「問」を自分の「問」とすることだ。

世界が拡がる。
「問を多く持つ」ということは、
「問われたときに」答えることができる、ということだ。

どうだ?
太田君はすごいなぁ…。

2011年5月15日日曜日

三つの箱から世間を覗く(第78回)

「"東京に原発を"の覚悟を持てるのか?」

○もう、20年以上も前になるだろうか、広瀬隆『東京に原発を』という本が出た。
(今、集英社文庫になっている。)

この「東京に原発を」論は、「極端」だろうか?
なぜ「東京に原発を」作らないのだ?と聞かれたら、と何と答えられるだろうか?

答えは二つ。
①東京でもし事故が起きたら、どうするのだ?
②東京は地価が高い。

②は、送電ロス・コストを考えたら、成立するか?
①しかあるまい。

もし、事故が起きたとき、
政治・経済・文化の中心で人口密集地である東京は、「高くつきすぎる」。
同じリスクなら、よりコストが低い地方を選択する、ということか。

リスク(危険性の甘受)の代償としての、
電源三法(金)や雇用ではないか?
なら、経済・雇用問題の解決手段として東京では意味なし、となる。

「答:都には金も仕事もあるので、危ない原発は嫌だ!
   地方は、金も仕事もないので、危ない原発でも受け入れる。
   東京は地方の「貧しさ」に付け込んでいる。」

これを、「ズルイ」とか「キタナイ」とか言えるだろうか?

○「極端な」議論が「現実」を浮き彫りにする。

「東京に原発を」論を詰めていくと、
「なぜ、原発を地方が受け入れているか?
 なぜ、一ヶ所に複数基集まっているのか?
 という「現実」がはっきりする。

○何が「現実」か?

・経済や便利・快適な生活という「現実」を前提にする。
・原発による交付金・税・雇用という「現実」を前提にする。
・もし事故が起きた時に失うものの大きさと、起きる可能性がある、という「現実」を前提にする。

「現実」なんて、各自の「価値観により選び取られたもの」に過ぎないことがよくわかる。
いくら正確かつ大量の「科学的データ」があったところで…。

だから、「(安全)神話」が必要だし、成立した。

○「安全神話」が崩壊した現在、
・あなたは、東京・横浜も原発を引き受けますか?、
・それとも、地方の「貧しさ」に「付け込み」続けますか?
・それとも、電気を20~30%我慢しますか?
 (経済への影響を考慮するなら、家庭は50%か?)

○ところで、本当に「安全神話」が崩壊したのだろうか?
 この危険性のすさまじさは、
 原発で事故に対応している人たちと、
 避難している人たちと、
 出荷制限・風評被害を受けている人たち
 が感じているだけではないのか?

 知れば知るほど、これだけ「危険」なものなのに、
 (例えば、福島原発の敷地にある、汚染された瓦礫はどうするんだ?)
 「原発停止、反対」の世論が高まらないのは、
 「安全神話」から覚めていないのではなかろうか?

○以下に引用したblogがあった。
同じテーマを扱っても、違った議論になるケースとしても、面白い。


「ビジネスのための雑学知ったかぶり」

なぜ東京には原発を作らないのか
東京に原発を作ったらという提言があります。
元々は広瀬隆氏の「東京に原発を」という著作で出てきた考えなのですが、
これを主張する人はほとんど全て原発に反対する立場です。

それならなぜ東京を原発を作ったらなどと言うかというと、次のような理屈があります。
(1) 原発が絶対に安全なら、東京のそばに作ればよい。そうすれば送電設備や送電ロスが大幅に節減できる
(2) もし原発が危険だから東京の近くに作れないと言うなら、
原発が建設される地方の人の命は東京の安全のために犠牲になってよいのか。
これは差別そのものではないか

一理あるようにも思えますが、反原発派の人が「東京に原発を作ればいい」と言う時には、
「原発は絶対安全みたいな嘘っぱちを言っているが、いざ東京に原発を作ることになると、なんだかんだ言って作らない。
それは結局原発が危険だということを白状していることだ」という思いが底にあります。

東京に原発作ったら論(以下、東京原発論)のおかしいのは、
それを主張している(というかディベートでの逆説的ロジックとして使っている)人達に、
「あなたは東京と地方のどちらに原発を作るべきだと思いますか」と聞いても、
恐らく「私は反原発論者なのでどちらも反対です」と答えるだろうということです。
あるいは「原発が絶対に安全だと言うならどちらでも構いません。
むしろ送電コストの安い需要地近くに原発は作るべきです」と言うかもしれません。
「絶対安全」なものなどありませんから、これも原発はどこにも作らせないと言っているのと同じです。
つまり東京原発論は原発建設阻止のための単なるレトリックに過ぎず、質問などではないということです。
質問でなければ答えても仕方ないのですが、東京原発論を思考実験として考えるのは無意味でもないでしょう。
少なくとも送電コストが下がるのは嘘ではありません。

まず、本当に東京周辺、たとえば羽田空港跡地とか、木更津の工場地帯あたりに作るとします。
そうすると現実には大変な反対運動が起きるでしょう。原発は普通過疎地に作るので、
原発建設に伴う地域振興策や、原発による様々な税収、雇用機会の増大が原発い推進の力になりますが、
そのようなものは東京周辺では全く役には立ちません。
要は実際に東京周辺に原発を作ろうとすると反対運動で身動きが取れなくなることは確実です。
反原発派には「そのような原発反対をきちんと説得できないのは原発が危険だからだ」ということになるでしょうが、
どんなに説得しても反対論がなくなることはあり得ません。
中国電力が計画している上関原発などは10年以上激しい反対が続いています。できないものはできないのです。

しかし、このことばかり言っていると、
原発には反対だから東京であろうと地方であろうと原発建設はダメと言っているのと同じことになってしまいます。
そこで、実際とは違いますが反対運動の強さについては東京と地方は変わらないと仮定してみましょう。
東京にもいざとなれば原発は作れないこともないという仮定です。
原発は大事故があれば広範囲に甚大な被害をもたらします。

しかし実際には、原発が実用化されて50年以上たち現在世界に500基の原発がありますが、
原発外部に多大な被害が及ぶような事故は1986年に旧ソ連のチェルノブイリ原発で起きたものだけです。
チェルノブイリの原発は黒鉛を使って中性子の減速を行うソ連独特の方式で、
それが大量の放射能を帯びた黒鉛を大気中にばら撒いて被害を拡大したということがあり、
また原発の構造や運用管理体制が日本と比べれば劣っていて日本で同様の事故は起きないだろうという指摘はありますが、
それを割り引いても被害の大きさは衝撃的なものです。
チェルノブイリ原発での事故直後に周辺住民の死亡はありませんでしたが
(消火作業にあたった消防士、兵士には数十名の死者が出た)、
その後の放射能の影響による癌、白血病などの発生で死者は最終的には数千名から数万人およぶとも推定されています。

チェルノブイリのような大惨事が起きる確率は一つの原発では2万年に1度程度と計算されています。
これはPSA (Probability Safety Analysis)という分析手法で予測したもので、
日本の原発に対しては、さらに小さな数字が得られています。
2万年に一度という事故の確率は、他の事故、飛行機や自動車事故と比べればかなり小さいと考えられます。
数字の上では原発周辺に住むことは特別に危険ということはありません。
それより都会に住んで、隣の家の火事やガス爆発に会う確率の方がよほど高いでしょう。
それに、仮にチェルノブイリ級の事故が発生しても、
原爆が落ちたように一帯が根こそぎ皆殺しになるようなことはありません。
ほとんどの人は生き延びることができます。

しかし、住民の命は大丈夫でもその原発周辺の地域は住むことに全く適さななくなる可能性があります。
原発が東京にあれば東京は失われることになります。
しかし、原発が人口や都市密度の低い地域にあれば、大事故があっても被害を小さくすることができます。
これは地方の住民を差別していると言えるのでしょうか。
そうではないと思います。飛行機は墜落することがありますがアメリカ大統領も飛行機に乗ります。
墜落の可能性は十分に小さいからです。
しかし、正副大統領が同じ飛行機に乗ることはありません。墜落の被害がずっと大きくなるからです。

原発が実用的であると言えるのは事故の危険性が十分に小さいからです。
東京原発論が誤りなのはわざわざ原発事故の被害を大きくすることになるからです。
想定被害を小さくすることは差別とは無関係です。
この論理は原発が新たに建設される地域の住民にとって十分に納得できるものではないかもしれません。
なんだかだ言っても結局は過疎で財政の逼迫している地方を
札束で頬っぺたを引っぱたいて危険を背負わせているだけだと感じるかもしれません。
2万年に1度と言ってもそれは来年かもしれないし、住民のほとんどは助かっても自分は死ぬかもしれません。
そのような不満、不安に十分に答えることは難しいでしょう。
飛行機なら乗らずに済むかもしれませんが、原発ができてしまえば原発事故の危険が生じるのは間違いありません。
しかし、東京原発論は奇妙なレトリックで原発絶対反対を言い変えているのに過ぎません。
原発の即時全廃ができないのなら、そのような議論は意味がないのです。

遠隔地に作られる原発は、地方の人間の命を東京の人間の命より軽んじ、
地方を東京のための犠牲にしているといった飛躍した論理にいたっては、
ほとんど言いがかりの域に達していると思います。
5階建てのマンションを木造で作ることを認めないが、
2階建ての個人用住宅は許されるのを、個人住宅の住民を差別していると言うのでしょうか。
被害を最小化しようというのは差別とは無関係です。

東京原発論は、原発の立地のような重大で困難な問題をすり替えて、ただ茶化しているだけです。
原発に反対することは色々な理由があるかもしれませんが、問題をすり替えてみても解決はできません。
問題は正面から解くしかないのです。

(http://realwave.blog70.fc2.com/blog-entry-273.html)

このblogは、なかなか面白い。
これに対するコメントも一緒に見ると、面白いぞ。

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いささか、長くなってしまったが、
同じテーマなので、ここで一挙に扱いたい。

Yahoo!知恵袋に、このことが「質問」になっていた。

「電気をたくさん東京で使うくせに原発は東京に作りたくないって都民はずるい。」
(http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?page=2&qid=1258907242#sort)

を見てみないか?
140人からの意見が、出ているらしい。

○この問題が、これだけの関心を集めている。
○(全部見たわけではないが)
 この程度の知識、いや、
 問題の複雑性に立った、多様かつトータルな視点の欠如
 で、「私の考え・意見」を主張する。

「都知事選の結果」がわかる気がする。

 

2011年5月12日木曜日

三つの箱から世間を覗く(第77回)

「坊主は本当に仏教徒か?」

「お坊さんがズバリ解決~伸助の駆け込み寺~」(TBS19~21)
という番組から。
(この番組は、「行列のできる法律相談室」の二番煎じで、
伸助の「ドヤ顔番組」じゃないか、というツッコミは置いておく。)

①「親友の彼氏から告白された。
 実は、私も彼が好きだった。
 彼をとるか、親友をとるか?」

理論派坊主の答:
「あなたは、"良い人"の仮面をかぶっている。
その仮面をはずした方がいい。」

おねぇ坊主の答:
「そんな男は、すぐ又別の女の方を向く。
そんな男を選ばない方がいい。」

「仏教とは、もの・金・愛欲などの「欲(煩悩)」を否定するものではないのか?

②「親友が事業に失敗して、金を貸してくれと言ってきた。どうする?」

癒し系僧侶
「貸す「雑愛の毒」という親鸞の言葉を引く。
少しでも「私」が混じっていれば、「愛は毒になる」という。
そして、「義援金と義捐金」の違いを説く。
そのくせ、自分が金を貸した話を金額も出して話す。」

やんちゃ和尚
「貸さない。貸した方は覚えており、貸してもらった方は忘れる。
そうすると、"心の不平等"が生まれます。
あなたと親友との間に、"心の不平等"が生むことになる。」

理論派坊主
「これまで何回もそんな相談を受けてきました。
その人たちは、私から「貸さなくてもいい」ということを聞きたいのです。」

おーい、「困っているものがいたら、助けてあげなさい。」
「帰ってこなくったって、その人が助かれば、いいじゃないですか」
が、答じゃないのか?
「親友かどうか」など、仏教徒にとっては。二の次以下ではないのか?

普通のコンサルタントじゃないんだ。
仏の教えを学び、仏の教えを衆生に教え、
説くのが坊主のあり方ではないのか?

5人の坊主がいて、
「癒し系僧侶」一人だけが、仏教の言葉を引いて答える。
だが、それとて、「仏の教え」に立ってはいない…。

最後の方で、「被災者の人たちに何をしたらいいでしょうか?」
の問に対して、
自分も現地に行ったという坊主が、
「頑張って」じゃなく「頑張っているねぇ」と声をかけた方がいい、と答えた。
これまで、何度となく、
「頑張って」と言うな、と聞いたが、
じゃ、どう声を掛けたらいいのか、は語られなかった。
これは、「なるほど」ではないだろうか…。

しかし、この坊主は浄土宗なのだが、
「○○させていただく」という。
この言い方は「すべては阿弥陀如来様のお導き」
何事も「自分の計らい事ではない」という
門徒(浄土真宗)の思想の表現ではないのか?
私は仏教に昏いので、断言はできないのだが…。

最後の伸助のまとめだが、
「自分たちは大したことはできない。
(何千万円・何億円を出すことはできない。)
だから、しばらくしてから、
自分が必要になった時に、やればいい。
また、1回だけでなく、ずっと続けることが…」
という(数千万円~数億円を稼いでいるだろうに…)。

だが、聞くもの誰も伸助の「真の言葉」とは思うまいなぁ…。
「したい、しなければならない」と思うなら、
「できること」をすればいいのじゃないだろうか?
「たいしたことはできない」というのは、
「たいしたことができる人」と比べているが、
なぜ比べて「しない」となるのだろうか?

地震後たいしてたたないうちに、「江頭2:50(45)が自らトラックを運転して東日本大震災の被災地・福島県いわき市の避難所に支援物資を届けたとの目撃情報が、mixiやTwitterを中心に広がった。福島第一原発の事故の風評被害により、同市への物資の運搬を拒否するドライバーが多くなっていると言われるだけに、本当であれば被災者を救う勇気ある行動だ。」
という話を無視できる伸助は、それほど長くはないのではないか、と思うが…、甘いか?

別に、「何かしろ」というわけではない。
「損得」ではなく「心」の問題を説く番組(人間)の言葉にふさわしいとは思えないのだが!

伸助のこの手の番組は、「深いイイ話」など続く。
誰が、何の魅力で聞いているのだろうか?
(伸助の話術はそれなりのものだろうが…。)

各宗派による「考え方、説き方」の違いがわかる番組なら、私は毎回見るだろうが、
発想するプロデューサー・ディレクターはいないだろうし、
始まっても、視聴率はとれず、すぐさま打ち切りになるだろうなぁ…。


(※)本日4本目。
 実は、8度超の熱で一日自宅でTVの前にいる。
寝室にじっとしているのも、固い本を読むのもつらい。
TVの前で寝たり、ぼんやり見たりして一日過ごした。
おかげで、4本書けた。

三つの箱から世間を覗く(第76回)

「新宿三越アルコット店の閉鎖」

新宿三越アルコット店が閉鎖し、Big Cameraに変わるという。
(これまでも、三越がヤマダ電機に、吉祥寺三越がヨドバシカメラにと、三越の店舗は家電量販店に変わっている。)

その記者会見の席で、社長は言う。
「この"物件"については、社内でもいろいろと議論が…。」

そうか、80年の歴史のある、お客たちにも愛着のある建物なのだが、
経営者たちにとっては、単なる「物件(モノ)」でしかないんだ!
愛情も愛着もないんだ!?

それじゃ、営業不振にもなるはなぁ…。
「楽しい買い物をしていただく場」が、
単なるモノで、コスト計算の対象でしかないのだ。

「安い!」なら、Big Cameraやヤマダ電機だよなぁ…。
「楽しい!」「リッチ!」という「気分」をサービスするのがデパートじゃないのだろうか?
「モノを売買するだけの場」ではなく、
「お買い物を楽しむ場」がデパートではないのだろうか?

新宿三越アルコット店を調べてみると、
「アルコット店の前身である三越新宿店は1930年に開店した老舗。
2005年に専門店(LOUIS VUITTON、Tiffany & Co.、Gap、ジュンク堂書店など)を集めたファッションビルとして業態転換していた。
売り場面積は約2万平方メートル。11年3月期の売上高は114億8500万円。」
(http://www.sponichi.co.jp/society/news/2011/05/12/kiji/K20110512000807040.html)
なるほど、なるほど…。

商品納入業者に店頭に立たせ、販売員を務めさせる。
それは、家電量販店のやることだ。
店員が客と接していなければ、
客のことは、何を何個買った以上のことはわからない。
売上高とコストの2つ。単なる「場貸し」だ。

だから、私は数年前の「経営統合」は、
「コスト削減」目的である限り、
それによる、百貨店の復活はあるまい、と思っていた。

「焼き肉えびす」と同じ。
「事業規定:わが社は、何をお客に提供するのか?」
をきちんと考えていない、としか思えない。

いや、それ以下だろう。
「顧客規定:わが社のお客は誰(何を求めているのか)?」
「焼き肉えびす」は、「安く焼き肉を食べること」を求める客に応えようとした。
じゃ、デパートは何・誰を?

「焼き肉えびす」は、従業員のモチベーション・アップに相当力を入れていたという。

どう見ても、言っちゃ悪いがチンピラみたいな勘坂・焼き肉えびす社長の方がよっぽど経営者らしいじゃないか!?


そうは言っても、百貨店の火は消えて欲しくない。
「百貨店は文化」なのだから…。
三越伊勢丹ホールディングスの未来はどうなるんだろうか?

2008年4月に経営統合した三越伊勢丹ホールディングスは、
2010年9月にグループ初の大型プロジェクトとして「三越銀座店」を増床オープン。
2011年5月には初めて三越・伊勢丹両方ののれんを掲げた「JR大阪三越伊勢丹」が誕生した。
グループの2013年度連結営業利益として300億円を目標に掲げている。
(http://www.fashionsnap.com/news/2011-05-12/mitsukoshi-shinjuku-biccamera/)

JR大阪三越伊勢丹・ルクアに初日50万人が来店し、嬉しいスタートとなったようだ。

2011年05月05日 16:00 JST
 西日本旅客鉄道が、4日に開業した「大阪ステーションシティ」内の新施設
「JR大阪三越伊勢丹」と「LUCUA(ルクア)」の初日動員客数を発表した。
4日、9時15分から21時までの営業時間(レストラン街は23時まで)で、
「JR大阪三越伊勢丹」は約27万人、「LUCUA」には約23万人、合計約50万人が来場。
「大阪ステーションシティ」内は開業2日目を迎えてもなお、客足が絶えない様子だ。
拡大 5月4日、グランドオープンを迎えた「大阪ステーションシティ」。
なかでもファッションエリアとして注目を集めるノースゲートビルディングに位置する「JR大阪三越伊勢丹」と「LUCUA」には、
早朝から多くの来店客が訪れた。1800名超の列が両施設外にできたこともあり、
オープン時間を45分短縮した他、館外、館内ともに入場制限がかけられるなど終日大盛況。
4日は両施設合わせて40万人以上の来店客数を見込んでいたが、予測を大幅に上回る数の来店客数を迎えスタートを切った。
 オープン後、両施設の間にある玄関口「アトリウム広場」は入店待ちの人で溢れていたが、
「(広場内の)混雑は終日続いた。夕方になっても来店者は多く、
(館内に入るのを待つ人の)列が短くなっただけ」と同社担当者は話す。
「LUCUA」テナントで関西初の「TOPSHOP / TOPMAN」を5階にオープンしたT's(ティーズ)は、
来店客数が1万5千人を超えたことを発表。
DJイベントも開催されていたショップでは、限定Tシャツも1時間ほどで売り切れ、1日で約2500点のアイテムを販売した。
また、その盛況ぶりは大阪駅周辺にも影響を与えている。
大阪駅の隣、阪急百貨店うめだ本店でも入り口と出口を限定するなど、来店客が通常の休日よりも多いという。
翌5日の朝9時の時点で、「『JR大阪三越伊勢丹』と『LUCUA』の館外には、
昨日ほどではいがすでにオープン待ちの人の列ができている」と同社担当者。

「大阪ステーションシティ」を中心に、大阪・梅田界隈が一気に活気づいている。
(http://www.fashionsnap.com/news/2011-05-05/osaka-station-city-50/)

三つの箱から世間を覗く(第75回)

「大関・把瑠都の放言に関して」

いかにもスッキリしない「技量審査場所」で、
大関・把瑠都の「不謹慎な発言」が問題となっている。

初日から2連勝の大関・把瑠都が豪栄道に上手投げで敗れ、
支度部屋で「遊びの場所みたい」などと不謹慎な発言をした。
放駒理事長(元大関・魁傑)がファンの信頼を土俵で取り戻すと誓った技量審査場所で、
大関が発した自覚を欠く言動は波紋を呼びそうだ。
「お客さん、無料ですからたくさん見に来てくれている。
でも、悪いけど遊びの場所みたい…。気合、入ると思う?」
(中略)
4カ月ぶりの場所に向けて放駒理事長は何度も「失った信頼は土俵で取り戻すしかない」と話した。
(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110511-00000035-spn-spo)

弟子の「姿勢・心構え」に問題がある場合は、
親方の責任、指導が悪いからではないのか?

親方の尾上親方(元小結・濱ノ嶋)を調べてみよう。

尾上部屋の過去の不祥事
 八百長問題では十両・境沢、幕下・白乃波、三段目・山本山が関与を認定され「引退勧告」を言い渡され、引退届を提出。
師匠の尾上親方は「委員」から「平年寄」の2階級降格処分を受けた。
 また大関・把瑠都が服装の乱れなどで計3度、協会から注意を受けた。
07年と09年に東京・六本木をTシャツ、短パン姿で歩き、
今年3月にはジャージー姿で大阪市内の繁華街を出歩いた。
今年3月は東日本大震災直後で協会は許可なく地方へ行くことを禁止しており、
尾上親方も厳重注意を受けている。
(http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/04/20/kiji/K20110420000663340.html)

場所前には師匠・尾上親方(元小結・浜ノ嶋)の酒気帯び運転が発覚。
協会から「年寄」に10年間据え置く処分を受け、
9日に道交法違反で書類送検されたばかりという事情もあるだけにあまりにもタイミングが悪過ぎる。
ある協会幹部は「大関という地位の重みを分かってほしい」と苦言を呈した。
(http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/05/11/kiji/K20110511000798980.html). [ 2011年5月11日 08:

把瑠都は服装の乱れなどで、過去注意されているらしいが、

塩撒きパフォーマンスを行う北桜との対戦では、
そのお株を奪うような大量の塩撒きを披露して館内を湧かせたり、
出身地を「奄美大島」と答えたりと、極めて陽気で茶目っ気のある性格であり、
脚の負傷が多いが、呼出の支えを借りて土俵を降りるような重傷を負っても、
退場前に必ず一旦呼出に手を離させ自力で振り向き土俵に一礼してから退場する、
負けても深々ときちんと一礼をする等、土俵態度への評価は高い。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%8A%E7%91%A0%E9%83%BD%E5%87%B1%E6%96%97)
とあった。

また、今場所から支度部屋への携帯電話の持ち込みが禁じられ、
力士は国技館の入り口で預けるようにしたそうだが、
預けることを忘れ、そのまま通り過ぎる力士がいたという。
親方の注意が不十分だったのだろう。
(携帯の取り上げ、自体は別として。)

「わかっていること」と「わかっていないこと」があるということだろう。
親方と相撲協会が「大相撲とは何か?」を教えられていない。
「心」をわからせないまま、「形」を注意しても、わかるどころか…。

「携帯持ち込み」などをいくら禁じようが、
「心」をわからせない限り、
八百長以外にも「不祥事」は続くであろう。
八百長問題以前に、朝青竜問題や弟子リンチ事件などがあったではないか…。

「親方」が「力士の心技体を育てる」のではなく、
「部屋の飯のタネを育てる」ようになっていないか?
外国人や現代の若者に、どう「大相撲の心」を教えていけばいいか、
その悩みがあるようには、到底思えない。

そのような大相撲改革のために、外部有識者による独立委員会が提言をまとめている。
提言は、理事の半数を外部から招く、
年寄名跡(親方株)の売買を禁じる、
親方の研修と人事考課制度を導入する、
相撲部屋を削減するなどの内容だ。

だが、親方の権益擁護団体たる大相撲協会は、
この提言を受け入れるとは、到底思えないなぁ…。

自分たちの「心」を問い直さず、
弟子を「指導・監督」しようとする。


だから、次のようになる。

把瑠都、怒られっ放し 鳴戸親方がカミナリ…技量審査場所4日目
スポーツ報知 5月12日(木)8時7分配信
 ◆大相撲技量審査場所4日目(11日・両国国技館)
今場所から監視役として監察委員の親方が入るようになった支度部屋で、初めて力士が注意を受けた。
力士の動向を厳しく取り締まったのは、十両の取組中に東支度部屋の監視を担当した鳴戸親方(元横綱・隆の里)だ。
 指導が厳しいことで知られる同親方の注意は多岐にわたった。
まずは、あいさつだ。3日目の軽率な発言で注意を受けた把瑠都は同親方に対し、歩きながらあいさつした。
すると「止まってあいさつせんか!」。あまりの迫力に支度部屋は静まりかえった。
「そういうのは親方衆が注意しなくてはダメだ」と憤慨し、さらに「私語が多い」として玉鷲にも注意をした。
 極めつきは、関取衆の下着の色にも注文を付けたことだ。
力士ごとにデザインは多種多様で、ハート柄などのパンツをはいている者も。
それが鳴戸親方の目に留まった。「カラフルな下着が目についた。
昔は横綱、大関も白をはいたものだ。白は高潔な色なんだ」と持論を展開。
さらに「個性は相撲で出せばいい」と付け加えた。
場所後に監察委員会と審判部が合同で行う場所を総括する会合で、下着の話題も出るかもしれない。
 ただ、下着の色まで指定することに、力士の反応はさまざまだった。
白鵬は「分からないけど、白っていうのは験担ぎじゃない?」と話した。
ある力士は「色は自由じゃないですかね? そこは関係ないと思いますけど…。
どこを監察してるんでしょうか。ほかに(見るところは)あるでしょう」と苦笑いだった

そして、「ある力士は「色は自由じゃないですかね?…」などと、
ほんとかどうかわからないが、
協会が聞いたら、黙っていられないようなことを、
面白おかしく、書きたてる。

すると、
「ほかのユーザーが把瑠都の発言を取り上げた報道を非難したのに反応して、
ダルビッシュは「最悪ですね。。」(原文まま)とツイートした。
さらに、格闘家の青木真也の「人の粗を探す風潮をひっくり返したい」という発言には
「それ自分も思ってました(笑)」と同調した。
(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110512-00000016-dal-fight)

というレスポンスを引き出すことになる………。

三つの箱から世間を覗く(第74回)

「東京タワーライトアップ再開に関して」

①東京タワーのライトアップが再開された、
(50%の節電をした上で)
というニュースを「知りたがり」(8ch.10:00~)がとりあげていた。

そのとき、「ライトアップしたことに、とやかく批判されるかもしれないが…」
とコメントしていた。
再開の理由も、「元気が出る」など。

「言われたくない!!」と、本当に思っているんだなぁ…。

ライトアップされた東京タワー、というのは、
東京の代表的夜景ではないのか?
これは、スカイツリーではまだはたせない役割だ。

それ自体が「必要か、否か?」で問うべきではないか?
ライトアップ全体は肯定しない。
石油・LNGを輸入し、原発に依存して生み出した電気の使用法としては、
ライトアップは、あまりほめられはすまい。
だが、東京タワーのライトアップは{代表的な東京の夜景」として、肯定したい。
新幹線で西から帰ってきたとき、ライトアップされた東京タワーは、
「ああ、帰ってきた」と思わせてくれるまで、東京の姿となっていよう。

それ自体の必要性に立たずに、「復興のため」とかなんとか、余計な正当化を図ろうとする。
だから、自信がなく、「言われたくない!」となる。
多くの人が納得できる理由に立ち、批判されても、
その理由を主張すればいいではないか?
(勿論、これは「ライトアップ」だけの問題ではないことは言うまでもあるまい。)

この「言われたくない(批判されたくない)!」意識は、
このblogでも語ってきた「他責」の論理・意識と関連してはいないか?
また「クレーマーの時代」の「防衛反応」ではないか?

続けて考えてみたい。

2011年5月10日火曜日

三つの箱から世間を覗く(第73回)

「浜岡原発停止要請に対するTV局の姿勢」

菅首相の浜岡原発停止要請に対して、「思いつき」という批判を
各局のニュースショーで何回か聞いた?
この批判に関して。

Ⅰ.
①「思いつき」か?
 浜岡原発の危険性は、かねてより、どの原発より危険だ、と指摘されていた。
 今回の福島の直後にも、すぐ問題となったし、
 3.11のあとすぐに静岡県東部で起こった地震のとき、
 関係者は、みなヒヤッとしたと思う。

②菅首相の自分の人気取りのためにやったことだろう、
 という解釈・推測(・邪推)に立てば、
 「思いつき」という評価も出よう。

③だが、仮に「人気取りのパフォーマンス」だとしても、
 浜岡原発を放っておいていいのだろうか?
 絶対にすべき「対応策」ではないのだろうか?

④浜岡原発停止が、無駄なこと、すべきことでないことならともかく、
 すべきことであるなら、支持し、評価すべきではないのか?
 それを「貶す」だけなら、彼に期待していないということになる。
 
⑤期待されず、良いこと・すべきことでも、
 「思いつき」「人気取り」と言われれば、
 彼の今後に、どれだけ期待できるであろうか?
 実に「無責任で、罪深い」報道である。

Ⅱ.
⑥角度を変えてみよう。
 TV局は、「浜岡原発停止を必要ない」と、思っているのではないか?
 という「仮説(解釈)」に立ってみよう、というものである。

⑦浜岡原発の地元を取材して、
 いかに、財政・雇用・商売で原発に依存しているか、を流す。

⑧もし、浜岡原発を停止したら、電力供給はどうなるんだ?
 東京電力(関東)に電力を回すことはできなくなる。
 とコメントする。

⑨「なるほど!」TV各局は(見る限り)、
 「浜岡原発を停止すると困ることが沢山出てくる」という主張だ。
 「浜岡原発停止に反対している!!」のだ。

⑩それなら、菅首相の「英断」にケチをつけるよなぁ…。

Ⅲ.
⑪彼らは、本当に「浜岡原発停止に反対している」のだろうか?
 まさか、そんなはずもないと思うのだが…。
 少なくとも、「意識的に、意図的に」反対はしていない、と思う。

⑫この「矛盾」は、TV局がこう考えているから、としか考えられない。
 「駿河湾での巨大地震なぞ起こらない」(と思う)、
 「だから、原発事故は起こらない」のだから、
 「経済・電力問題を優先すべきではないか」
 「菅首相は、不必要な浜岡原発停止を打ち出した」
 「思いつきの、パフォーマンスだ!」

⑬原子力安全委員会や原子力安全・保安院と「同じ」なのだ。
 この二つの組織は「安全を職責」としていたが、
 「推進>安全」に立ってきており、
 事故後も、福島第一原発以外の安全性については、一切口にしない。

⑭「経済、財政、雇用、電力、便利、快適、…>安全」
 という図式が問われていることは、はやもう忘れ去られた。
 まあ、簡単に忘れられるほど、小さい声でしか語られなかったのだが…。

⑮別にTV局や安全委達だけではあるまい。
 国民みんな、同じじゃないのか?
 だって、「前科」がある新潟柏崎刈羽原発には7基。
 敦賀・美浜のには、13基。
 玄海、福島第二には、各4基づつ。
 泊、女川、伊方には、各3基づつ。
 そのほとんどは、大地震がすぐそばで起こった所だ!
 住民たちは、みな黙っているようだ。
 
⑯いや、大地震なぞ、めったに起こらない。
 今回だって、「想定外」の規模で、「想定外」の津波がなければ…。
 
⑰「想定外」で「大災害」なんだが…。
 テロリストが小型機で突っ込まなくったって、
 航空機事故でもなんでもいい。
 「想定外」の例を列挙するのは、虚しい…。

⑱「悪いのは東電(電力会社)」と一貫して世論は形成されてきた。
 (菅政権は、事故後の対応が悪いだけ。
 国策として推進してきた自民党もおかまいなし。)
 「安全性」は電力会社の「責任」だ。
 他のものは「知らない」でいいんだ、と思っているんだろう。

⑲だが、「原発選択・依存」とは、
 何を選んで、何を危険に曝しているのか、気付いていないんじゃないか?

 まさかね!
 福島第一原発で今も放射線・放射性物質が漏れ続けており、  
 住宅地・農地・海・海産物などなどに蓄積され続けており、
 周辺の住民は、今現在、避難生活を続けている!!

 私たちは、毎日TVで見聞きしているのだが…??
 何よりも、TV局は、避難所・避難民のニュースを毎日のように流しているのだが…???

⑳凄まじいなぁ…。
 どうか、「想定外」のことが起こりませんように…。

(付)先ほど、中電が停止を決定した、と聞いた。
 TV局は「首相の要請には断れなかった」など、と言っている!!
 
 「もし」が起こったら、中電はどうなるのか?
 停止要請があったのに、拒否して、「もし」が起こったら…。

 考えるだけでも恐ろしい。
 首相が止めろ、というのだから、
 「ラッキー」と思ったに違いない。


 だって、東電と違って、政府の命令による「電力不足」だし、
 収益が悪化したって、政府に従ったからです、と株主にも言える。
 ではなぜ、すぐ要請に応じなかったのだろうか?

 それは、「検討したという事実」を「株主総会」のために用意したのさ…。

(付2)最初書いた時に、触れねばならないことがあった。
 「私企業に首相が"命令"できるのか?」という問いをTVは出さない、
 という問題である。
 推測するに、「原発は国策」、
「電力会社の自主的判断で原発推進しているわけではない」から、
「止めるのも政府の指示で…」と、
 どこかで、メディアも国民も思っていないか?

 だが、これは錯覚だが、「本質」ではないか?
 首相に「停止を命じる権限」があるのか?
 という問いは、「法律的」には正しいかもしれないが…。

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コメントを付けてくれている諸君には、心から感謝している。
おかげで、「白熱教室」も出現した!

できたら、みんな一言でいいから、何か書き残してくれないか。

2011年5月8日日曜日

三つの箱から世間を覗く(第72回)

「秋田犬の里 ~秋田県大館市~」(NHK「小さな旅」日曜AM8~)

○秋田県大館市は、あの忠犬ハチ公も生んだ「秋田犬の里」だ。
「里」が「里」であり続くのは、「里」を守っている人がいるからだ。

 秋田犬を育てている男性(60代かな)。
 本当に可愛がる人でないと譲らないという。
 譲った後も、どうしているかを、手紙・電話で確認している。
 (なんと面倒な、とも思うが、譲った方も、譲られた方も、それだけ
 可愛く、大切にしている人々ということだろう。)
 中には、きちんと飼っていない人もやはりいた。
 その時は、取り戻しに行ったという。

○その人が子供の時、
 戦時中、秋田犬を(全頭)供出せよとの軍命令が出た。
 防寒用の毛皮にするという!?
 彼がついていた秋田犬の「繁殖家」は、雄雌1組だけを山に隠した。
 この行為がなければ、秋田犬の血統は…。
 (日本の軍事官僚の話を聞く度に…。)

○「大切にする」「本気で守り通す」
 こういう「本物」の人々の存在の貴重さ!
 
 それを「地味に」伝えてくれる、NHKの「有難さ」。
 
 私たちは、こういう人たちを「尊敬」したい。
 こういう人たちに対して、社会が「感謝」の念を抱き続けて欲しい。
 こういう人たちの「後継者」が途絶えないことを心から願う。
 
「伝統工芸」を「受け継いでくれる人」がいなくなったら、
 輪島塗も、大館曲げわっぱも、南部鉄器も、江戸切子硝子も、…、…。 
「技」と共にある「心」の承継。
「技」は復元可能かもしれぬ。だが、
 一旦失われた「心」は…。 
 
 ゼミ掲示板で語られた「美意識・恥」も「同じ世界」の話だろう。

○日本犬の持つ「美質」は、まさに「日本人の美意識」そのものである。
 当然だ。日本人が「生み」「守って」きたのだから。

 少し、日本犬を知ってみたいかね?
 私も、戸川幸夫の「動物小説」を読んだだけだが。
『高安犬物語』、『かませ犬』

 彼の作品は、「動物」を描くことにより、「自然と人間」を教えてくれる。
『爪王』により、「鷹と鷹匠」を知り、「誇り」を意識させてくれた。

 「(新しい)知」と「感動(心を揺す振られる)」があれば、
「世界」「ものの見方」が変わる(かもしれない)。

2011年5月5日木曜日

三つの箱から世間を覗く(第71回)

「福島原発事故の賠償・補償は誰がどんな形で?~福島原発事故の責任①~」

この稿は、東電がどれだけ賠償すべきで、かつまたできるか?
など具体的問題や、
この時点で「値上げ」を言ったりすることについては触れない。


「電気料金値上げ16%}の文字が新聞に踊る!

①街ゆく人たちにインタビューしている。
「仕方がないんじゃないですか?」×1
「納得いきません」×1

まぁ、「お約束」の「賛否両論」
(視聴者をほんとに舐めているよな。これについては、また述べたい。)

みんな、「値上げ16%」以外、知らないし、調べもしていまい。
それでも、意見を堂々というんだよなぁ…。「意見を言う権利」てヤツか?
(賛否の意見を持つことと、他者に聞かせようとすることは「別」だ。)

②税金(国の責任)でも、電気料金(東電の責任)でも、
(乱暴に言えば)賠償・補償額は同じ。
従って、払う我々の「出費額」は同じ。  

③関東の住民には「値上げ」だが、他地域住民は「値上げなし」。
まぁ、当然かな?どうだろう?
関電や四電で値上げといったら、そこの住民は何と言うだろう?

「誰の責任か?」が不明確なままだもんなぁ…。

④東電が支払う賠償・補償金は、そのままコストとなる。
そのコスト増は、東電利用者が負担するということか?

⑤税金なら、「国家の責任」すなわち、「国民の責任」ということか?
同じ国民として、互いに助け合う。
同国民の自己責任外の被害は補助するのは当然。
だが、この事故は、「国民の責任」なのか?

⑥東電の役員報酬50%カット。それでも、平均2000万円(社長・会長は?)。

⑦原子力安全委員会や保安院のメンバーの責任は?
前者は、月1の会議で、年1,600万円の報酬という。
彼らは、「原子力安全」の専門家として大きな権限・責任がある。
だが、今度の事故の責任は問われぬどころか、
彼らが電話会議程度(議事録もない)で、
「福島県の小学校等の校庭利用の線量基準が年間20mSv」
を決定したという。

小佐古参与辞任問題は、まさにこの「責任問題」なのに、
TVは1回流しただけで、
あとは、「被災者の姿」など「ヒューマン・ドラマ」を流している。

⑥⑦のような点は、賠償総額に比すれば、極めて微々たるものだ。
だが、①~⑤で見たように、
「誰が、何に対して責任があるのか?」を抜きには、
税金か?電気料金値上げか?をきちんと論ずることはできまい。

「原発推進派」は、東電に責任があるようにいい、
今、東電は、責任を限定させようと必死になっている。

避難民は、「東電出てこい!」と叫んでいれば、ある程度の金を手にすることができるだろう。
国民、関東の住民はノホホンとしているうちに(経済のために自粛するな、旅行しろ、金使え、に踊り)、
おそらく、税金と電気料金アップのWパンチを食らうんだろうなぁ…。

今回は「国難」と言われているほどのことだ。
必死・本気になったやつに負けても仕方ないか?
寂しいなぁ、情けないなぁ…。

(※)コメントを付けてくれている、太田君、竹田君、杉山君、中村君、他の諸君。
ありがとう(特に、毎回書いてくれている太田君)。
君たちと、一緒に考えていくのは、本当に楽しい。

地震という「天災」以外は、
原発事故、ビンラディン殺害、焼肉食中毒事件、などはみな「人為」だ。
「天意」は受けるだけ。
だが、「人為」は「人が起こしたこと」故、
「人が考え、取り組まねばならぬこと」だ。
しかも、どれも私たちに無関係ではない。
これからも、どん×7コメントしてほしい。

2011年5月4日水曜日

三つの箱から世間を覗く(第70回)

「イノベーションと安全性~焼肉屋食中毒事件③~」

「焼肉酒家えびす」は、株式会社フーズフォーラス(郊外型レストランチェーンの経営)で、設立は、平成10年9月。
その後10年ちょっとで、富山・石川・福井・神奈川で20店舗ほど展開するまでに至っている。
(資本金:4,000万円、売上高:18億円、従業員数:正社員90人 パート・アルバイト400人)

TVで見ると、1皿100円の看板など「人気の秘密」が窺える。
この急成長の背景には、いろいろな「経営努力」があったんだろう…。
社長も28歳の若さだ。
こんな急成長ベンチャー沢山あるだろう。

私は、「Book-off」を思い出した。
それまで「古書店」は「プロ」にしかできない、とされてきたという。
古書の仕入れに際して、仕入れルートと鑑定眼が必要という。
Book-offは、その「古書業界の常識」に立たず、
「本のリサイクル」というコンセプトに立ち、
鑑定眼を持つプロではなくバイトで成立させた。

今回も同じ。
「業界の常識」に立っていては、これだけの急成長は難しかったのではないか?
「肉の鑑定眼」を持つプロを各店で雇っていたのだろうか?
「納入業者を信用した」のは当然だ。信用できない業者から納入は(本来)信じられない。
だが、細菌検査も最初だけ、というのは、
「安全なものを提供する」という飲食店の基本中の基本を忘れており、
この期になっても、まだ言う。
「生肉を規制しなければ、同じような惨事が起こる可能性はある」

彼は、事業規定を"飲食業"としたのではない。"チェーン店"としたのだろう。
そして、その方向性に沿って、"イノベーション"も行ったのだろう。
それが「成功」して、10年ちょっとで20店舗の"チェーン店"が達成できたのだろう。

事業成功の大きなカギは、まちがいなく"イノベーション"であろう。
創造的「破壊」である。
何を「破壊」するのか?
自社・業界の常識、それまでのやり方・あり方であろう。
その中には、「プロ・職人の技」も入っている。
もともと「科学的管理」は「未熟練労働者の活用」が背後にあるのだから…。

「自社・業界の常識、それまでのやり方・あり方」は、なぜ生まれ、何を与えてくれているのか?
この問こそ重要であり、かつまたその答えの出し方は難しい。

「数値を上げたい」そのためには?ならね…。
「数字は目に見える」
だが、
「安全は…?」

ああ、「事業規定」こそ決定的なんだなぁ…。
「わが社の事業は何か?」
誰に、「何を」提供するのか?

「マーケティングとイノベーション」は、
「企業存続のための"未来費用"たる"利潤"」獲得に必要だが、
「事業規定」の設定・理解の深浅を「誤る」と、
「企業存続」ができなくなる。

「事業規定」が「市場(環境)」だけでなく、「社会(環境)」「自然(環境)」にまで意識が及ばないと、
別言すれば、「倫理」を忘れると、「顧客は誰?」の顧客は人間じゃなくなる。

ああ。東京電力福島第一原子力発電所事故にも、
全く、同じように当てはまるじゃないか!?

三つの箱から世間を覗く(第69回)

「外食で食中毒にならないのは…?~焼肉屋食中毒事件②~」

①4月19日より26日の間に「焼肉酒家えびす」が集団食中毒事故をおこし、
富山、神奈川、福井の3県の患者は計65人(死者2人を含む)にのぼり、
全店は営業中止、富山県警・福井県警が業務上過失致死傷容疑で捜査本部を設置したという。

5/2(第67回)に「富山焼肉店事故の報道の仕方」としてとりあげた。
太田君がいいコメントを付けてくれた。
「この件については、食肉卸業者に「騙されて」いたかどうかは
全く抗弁理由にならないと私は考えております。
これが未認可添加物の使用の有無といった、外観上も検査からも判別できない
事項ならばまだ情状酌量の余地はありますが、生食用か否かの目利きも出来ずに
食材を購入するべきではなく、もし目利きの自信がないならば如何に安心できる
卸業者を選択するかに注力するのが筋のはずです。」

その後の報道で、太田君の指摘が焦点であることがはっきりしてきた。
・「生食用」に屠畜・精肉化されているものと、それ以外の「加熱要」の肉の2種類がある、
 というのが、大方の認識じゃないか?
・だが、馬肉は別として、牛豚鶏などに関しては、09年度は「生食用」として出荷された実績はない。
 (ここあたりがよくわからないなぁ…。その資格を持つ屠畜場もあるというのに。)
・98年に「生食用食肉等の安全性確保について」に定められた衛生基準に従って、提供されているらしい。
 殺菌処理しているとの前提で仕入れた肉を、独自の管理基準を作って管理(細菌検査や調理器具の消毒等)し販売している。

②そうだったんだ…。
我々は「肉食民族」じゃないなぁ…。
だって、魚(刺身)と同じじゃないか?
だが、私以外のみんなも、「生食用/加熱用」が「画然」と分けられている、
と(どこかで)思っていなかったか?

考えてみりゃ、「魚と同じ」でも、全く不思議じゃない。
そういうもののはずだ。

③だが、どうも「そういうもののはず」ではないようにしろ、という声を聞く。

 「生肉を規制しなければ、同じような惨事が起こる可能性はある」。
焼き肉チェーン店を経営するフーズ・フォーラス(金沢市)が2日に開いた記者会見で、勘坂康弘社長は語った。
「生肉」に関する国の衛生基準に罰則がなく、全国の焼き肉店で提供される生肉の大半は、国の基準を満たしていないとみられる。
(毎日新聞 5月3日)

今日(5月4日)の朝のTVでも、焼肉屋数十軒へのアンケートで
「国が規制/店が自己管理(肉の素性は明確化)」の回答は大体半々だった。
スタジオにいる連中は、「国が"生食用"を保証せよ」という。

確かに、魚屋には「生食用」として売っている。
私たちは、魚に関してトーシローだから、「生でたべられるよ」と言われなきゃわからない。
だが、その「生食用魚介」は冷蔵庫に保管するし、冊から切り分けるとき、まな板も包丁も気を付ける。
生肉には(魚と違い、)菌が最初から付いていて、それを処理するのに家庭では難しい(面倒)という。

④何が言いたいのか?
「生食用」だから「安心」ではないんじゃないか?
「生で食べられる」ように飲食店がきちんと衛生管理しなければ、
「生は危ない」のだ。

(蓮舫消費者・食品安全担当相は2日の記者会見で、
「飲食店で生肉料理を食べる際は、加熱用の食品を使っていないか確認してほしい」と呼び掛けた。
蓮舫は、きちんとレクチャー受けたのか?
コンビニ視察でお茶を濁せることじゃないんだぜ?
(どんどん馬脚を現わし出したなぁ…)

過去報道された「焼肉屋食中毒」は、焼き肉たむら、焼き肉安安というチェーン店だ。
(勿論、他でも事故を起こしているが報道されていないだけかもしれないが)
チェーン店化とはマニュアル化に他ならず、
プロの仕事をアマにさせるということだろう。
「生食可」の目利きもプロの仕事である。
「生食可」のお墨付きをお上に求めるようになれば、
生肉の衛生管理・処理の意識・技量・質は?
「焼肉酒家えびす」では、4店で発生している。

勘坂康弘社長は「(ユッケとして)肉を生で提供することの危険性は認識していたが、
企業体質の甘さから検査を休止していた。反省、後悔している」と謝罪した。
 フーズ・フォーラスによると、最後に検査したのは09年7月29日。
それ以前の数年間は定期的に実施していたが、一度も菌が検出されなかったなどの理由でやめたという。
(北日本新聞 2011年05月03日)

私は、生魚は食べるが、ユッケやレバ刺しは食べん。
だが、子供や学生と一緒に焼き肉は食べる。
最近こそ、頼まなくてもトングを持ってきてくれる店が出てきた。
だが、少し前まではどこでも、私は店員に、「食事用」じゃない「肉焼き用」の箸を頼んでいた。
「口に運ぶ箸で、生肉を挟む危険性」を店側は認識していなかったのだ!

「全国焼肉協会」には、全国1400店が加盟するという。
どこで、安全に「焼き肉」を食べることができるだろうか?

2011年5月3日火曜日

三つの箱から世間を覗く(第68回)

「心は見える」というACのCM

電車の中で3人の生徒の内、一人だけが、
女性が妊婦に席を譲っている所を見る。
その生徒は、(躊躇いながらも)石段を上る老人の手助けをする。

「見たもの」だけが「学んで」いる、「変わる」。
ふざけている他の二人は「見ていない」。

なぜ、「(席を譲っているところを)見た」生徒は「見た」のだろうか?

このように、「問う」ことから、「仮説」を出すことができるようになる。
みんな、考えてみたらどうだ。

随分前に"gunbo"なる人物から、「心は見えるか」に質問が出ていた。
"gunbo"なる人物の正体が不明であるため、どう答えるべきか迷った。
他に言いたいテーマが、次々にあったので、このテーマ置いてきた。

皆の答に絡めて、私の考えを語りたい。

2011年5月2日月曜日

三つの箱から世間を覗く(第67回)

「富山焼肉店事故の報道の仕方」

TVニュースで焼き肉店の言い分を聞いていると、
卸売店から勧められた「生食用」を使った、と言っている。
(自社で検査はずっとやっていないと。)

他のメディアを見ると、
「生食用」の肉ではないこと知っていながら使った、と言っていることを報じているものもある。
(第一報でも、そう聞いた。)

卸売店が偽って卸していたことが事実なら、
他の焼き肉店などでユッケやレバ刺しは食べては危ない、ということになろう。

適当に、焼き肉店経営者の会見を「つまみ食い」して流していいのか?
記者会見の全部を流したわけではない。
一部分の「卸売店が生食用と言ったから…」だけを流すのは、
「生肉を食べるのは気を付けよう・控えよう」というメッセージだったのだろうか…?

(タイトルからはずれるが…)
それにしても、記者会見での社長の謝り方はひどいなぁ…。
体育会系の集団での謝る時の言い方じゃないか。
それにしても、タムケンの謝罪の仕方、責任の取り方は良かったなぁ…。

三つの箱より世間を覗く(第66回)

「ビンラディン殺害報道に思う」

O.ビンラディンが殺害された。
TV・新聞が言わないことを述べたい。

最初に、私は「テロ」を肯定しない。
しかし、圧倒的な弱者の戦い方として、
「ゲリラ」と「テロ」がある。

①なぜ「ゲリラと(戦争)」は肯定され、「テロ」は否定されるのか?

②他国の国民を爆撃し、襲撃し、殺害し、遺体は海に捨てたという。
 (逮捕、身柄引渡しの要求ではない。)

③9.11のテロ行為を肯定はしない。だが、あのテロ行為は突然、「無」から生じたのか?

④ みな、「正義と悪」という図式を、そのまま信じているのか?
 アメリカ対アルカイダは、「正義と悪」か?

⑤「O.ビンラディン殺害」は「復讐」であっても「正義の勝利」か?
 (私は、「復讐」を否定するものではない。)

⑥O.ビンラディンの家族も一緒にいたのではないか?
 一緒に居住していたら、一緒に殺害されても自業自得か?
 
⑦アメリカの(殺害までの)執拗さと、(殺害後の)歓喜を、あなたは、どう感じますか?

⑧自国の国民が殺されたら、ましてや自国が攻撃されたら、「絶対に」許さない。
 地の果てまで追い、地に伏して許しを乞わねば(乞うても)、殺す。

⑨9.11以降のアメリカのイラク・アフガン攻撃は、
 「世界平和のための対テロ戦争」なのか、
 「攻撃されたことへの復讐戦争」か?

⑩米軍は被災地復興に力を貸してくれた。
 日本は、「9.11以降の戦いに、どう同盟国として協力してきたのか?」

⑪今回のニュースは、事件そのもの、アルカイダ、テロの今後、他のイスラム諸国の反応などより、
 日本の同盟国、日本を軍事力と核兵器で守ってくれている、
「アメリカとは?」をあらためて考えさせるものではないのか?

私は、アメリカは、
・力と金を信じる
・やられたら、やり返す
・自分のテリトリーに敏感
・下でに出れば守ってくれるが、対決姿勢を見せると…
・ええかっこが好き
・男尊女卑

まだまだあるが、「アメリカは○ーサン」とそっくりだ。
日本は、21世紀を20世紀後半と同じようにアメリカの子分を続けるのか、
それとも、中華帝国の属国になっていくのか?
「本気」で考えなくていいのだろうか?

日本以外の国は、どう他国と関わっていこうか、もっとはっきりしているのじゃないか?