「お疲れさまという言葉」
朝晩ベッドの所まできて、
看護士さんが血圧を測ったりしたあと、
「お疲れさま」と言って立ち去る。
こちらは「ありがとうございました」と応える。
ふと気づいた。
学校で学生から同じように、
講義が終わったり、キャンパスで会ったときなどで、
「お疲れさま」と言われていることを…。
この言葉にいつも引っかかってきた。
ゼミの学生には、注意してきた。
「そういうときには"お疲れさま"とは言わないのだ。
"ありがとうございます"とか"さようなら"でいいんだ」
(近年は、ゼミの先輩が注意してくれている。)
おもしろい!
学生から先生に言う言葉。
「サービス」を受けたもの、何かしてもらったものから言う言葉と思っていた。
だが、ここ病院では逆だ。
した方がされた方に言っている。
なぜだ?
「お疲れさま」は「ねぎらい(慰労)」の言葉だとしたら、
先生の「何に対して」、「お疲れさま」と言っているのだろうか?
相手の教育という「サービス労働」に対しての言葉なら変だ。
「授業料ー賃金」で済んでいるはずだ。
「相手は何かしたー自分は何もしていない」でも変だ。
学生は「勉強している」のだから。
だが、患者は治療・検査を受けているが、
通常それは「何もしていない」と理解されていないか?
それなら、患者から看護士・医師に「お疲れさま」と言わねばなるまい!?
だが、逆だ。
わからないなぁ…。
相手に対して何か言ってその場から離れる時の言葉として「発明された言葉」。
それが現代の「お疲れさま」だ。
「全然」も「ヤバイ」も肯定的意味と否定的意味を持つようになった。
つまり「(本来の)意味がなくなった」ということになろう。
"very"や「すごい」という意味くらいしか持たなくなった。
「意味」は「方向性」と無関係には持ち得まい。
「先生ー学生」「看護士ー患者」の方向性がなくなっている(希薄化している)から、
逆の方向から同じ言葉が発せられるようになっている。
「方向性」とは「関係性」と言い換えてもよかろう。
親子関係や師弟関係が「友達関係」になっている、
としばらく前から言われるようになっている。
それは「当事者(間)の意識性」の問題と
とられ得られてきているように思えるが、
実は「社会的関係」「構造的」問題ではないか。
「学生による授業評価」
「インフォームド・コンセント」「セカンド・オピニオン」
「裁判員制度」「検察審査会」等々
「専門家」否定の風潮・傾向はとどまることを知らぬかのようだ。
「関係」「立場」の消滅と「言葉の意味」はつながっているのではないだろうか…?
だが、やはり気になる。
治療や検査を受けた者の「何に対して」
「お疲れさま」と言っているのだろうか?
看護士が患者に検査・治療などのあと、
「お疲れさま」と言うのは適切なのだろうか?
何と言えばいいのだろうか?
そして、患者は何と応えればいいのだろうか?
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