2011年3月11日金曜日

「三つの箱から世間を覗く(第37回)」

「お疲れさまという言葉」

朝晩ベッドの所まできて、
看護士さんが血圧を測ったりしたあと、
「お疲れさま」と言って立ち去る。
こちらは「ありがとうございました」と応える。

ふと気づいた。
学校で学生から同じように、
講義が終わったり、キャンパスで会ったときなどで、
「お疲れさま」と言われていることを…。

この言葉にいつも引っかかってきた。
ゼミの学生には、注意してきた。
「そういうときには"お疲れさま"とは言わないのだ。
"ありがとうございます"とか"さようなら"でいいんだ」
(近年は、ゼミの先輩が注意してくれている。)

おもしろい!
学生から先生に言う言葉。
「サービス」を受けたもの、何かしてもらったものから言う言葉と思っていた。
だが、ここ病院では逆だ。
した方がされた方に言っている。
なぜだ?

「お疲れさま」は「ねぎらい(慰労)」の言葉だとしたら、
先生の「何に対して」、「お疲れさま」と言っているのだろうか?
相手の教育という「サービス労働」に対しての言葉なら変だ。
「授業料ー賃金」で済んでいるはずだ。

「相手は何かしたー自分は何もしていない」でも変だ。
学生は「勉強している」のだから。

だが、患者は治療・検査を受けているが、
通常それは「何もしていない」と理解されていないか?
それなら、患者から看護士・医師に「お疲れさま」と言わねばなるまい!?
だが、逆だ。

わからないなぁ…。
相手に対して何か言ってその場から離れる時の言葉として「発明された言葉」。
それが現代の「お疲れさま」だ。

「全然」も「ヤバイ」も肯定的意味と否定的意味を持つようになった。
つまり「(本来の)意味がなくなった」ということになろう。
"very"や「すごい」という意味くらいしか持たなくなった。

「意味」は「方向性」と無関係には持ち得まい。
「先生ー学生」「看護士ー患者」の方向性がなくなっている(希薄化している)から、
逆の方向から同じ言葉が発せられるようになっている。
「方向性」とは「関係性」と言い換えてもよかろう。

親子関係や師弟関係が「友達関係」になっている、
としばらく前から言われるようになっている。
それは「当事者(間)の意識性」の問題と
とられ得られてきているように思えるが、
実は「社会的関係」「構造的」問題ではないか。
「学生による授業評価」
「インフォームド・コンセント」「セカンド・オピニオン」
「裁判員制度」「検察審査会」等々
「専門家」否定の風潮・傾向はとどまることを知らぬかのようだ。
「関係」「立場」の消滅と「言葉の意味」はつながっているのではないだろうか…?

だが、やはり気になる。
治療や検査を受けた者の「何に対して」
「お疲れさま」と言っているのだろうか?

看護士が患者に検査・治療などのあと、
「お疲れさま」と言うのは適切なのだろうか?
何と言えばいいのだろうか?
そして、患者は何と応えればいいのだろうか?

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