2011年4月30日土曜日

三つの箱から世間を覗く(第65回)

「学者・識者の責任・曲学阿世~2011.4.30のTV~」

○覚悟を求められている「識者」
昨日(4/29)小佐古敏荘内閣官房参与が辞任した。
政府の対応の遅さ、情報の「隠蔽」と共に、
「変更された小学校などの校庭利用を制限する限界放射線量は自分の子には浴びせられない量だ」
という趣旨の理由に因るものだ。

○今朝、「ウェーク」で「それでも原発は必要か」をやっていた。(4.ch)
コメンテーターの一人、木場弘子は政府のエネルギー・原子力部会委員だ。
他にも、田中隆弘原子力安全・保安院広報担当(?)
現状分析は「脱原発派」の研究者、
政治家からも「脱原発」の河野太郎衆院議員など。
河野太郎は、「自民党はこれまで原発を推進して来、安全委員会、保安院も自民党政権が…。」
として、反省すべき、と言う。
(臓器移植法などで、評価したくなかった河野だが「自党の責任」を口にしたのは大いに評価したい。)

○木場は、TV画面で自分が政府の原子力政策に関与してきたことを流されても平気なのは凄いなぁ…。
政府委員は官僚政治の片棒担ぎをするのが仕事であることは、しばらく前から明らかになってきた。
「結果」が悪くなければ、「責任問題」も生じまい。
だが、今回の原発事故は、ここに関わったものが全てが「責任を問われる」べきものだ。

○小佐古敏荘は立派、木場弘子はダメ、という趣旨ではない。
大体、(ネットで調べてみると)小佐古敏荘氏は、国側、電力会社側にベッタリの人物だったという。

○政府に加担するな、とは言わない。
だが、権力と関わる時、「識者」と呼ばれるものは、
時の権力の「正当化」のために委嘱されるのだ、ということを忘れてはなるまい。
(反対派は、原則呼ばれない。官僚の作文にサインすることが期待されている。)

だが、自分の「学識」を評価されているから、その地位に就く正当性がある。
社会も、「学識」に対する信頼から、その識者が認めた「報告書、政策」を受け入れるのだ。

「原発賛成」自体を「禁ずる」気にはなれない。すべきでない。
だが、
・「原発推進派」は、「原発の被害」に対し、「応分の責任」を負わねばならない。
 併せて、「自分の考え」が誤っていたことを認め、謝罪すべきではないか。
・「原発推進派」でもないのに「市民、消費者、女性」だのというものの「代表、代弁者」として、
推進に関与したものも同様の責任・謝罪があるべきだが、
こちらの方が、はるかに「罪が重い、質が悪い」であろう。
推進派の学者は、自分の学問に立った。
だが、「市民派」だの「女性目線」で、「推進派」に協力したものは、
自分の「学識(立場)」を曲げたのである。

科学・学問の「正誤」「責任」とは別に、
研究者・学者の「責任」がある。
その最大のもので、絶対許されないのが、
「曲学阿世」であろう。

「曲学阿世」の存在は、その言葉と同じだけの古さを持つ。
だが、この「生まれ方」は時代・社会で違う。
現代日本において、
「社会に役に立つ」テーマにだけ研究費を配分せよ、
資金を自分で(企業から)調達してこい、という。(所謂「競争原理」。)
より、重要なのは、研究に必要な資料・データを、
研究対象から得なければならない点だ。
原子力・原発安全性を研究するもの、電力会社の社会的責任を研究するものは…。
協力的研究者と資料・データ面で大きくハンディを受けよう。

政府とTVは、「曲学阿世」を求める。
自分たちの都合に合わせて「自分の学を使う(曲げる)」ものを求めるのだ。

だが、「曲学阿世」は、学問・学者の社会的信頼を棄損する。
自然科学と社会科学の両輪により成立する、現代社会における「曲学阿世」の罪の重さを、
(「曲学阿世」を)求める者も、答える者も、その結果を受け入れるその他の者も、
今一度、考えてみるべきである。


気付かぬことが、基本・基盤であり、
気付かぬことにより、結果でたあとで、
取り返しのつかぬことをした、と深い深い後悔に沈むことが、
個人でも、組織・集団でも、社会でもあるのだ。

1 件のコメント:

  1. 太田(3期生)です。
    私は平成15年に施行された国立大学法人法が曲学阿世に拍車をかけて
    いると考えております。
    文部科学省HPによりますと、国立大学法人法の概要は次の通りです。

    1、「大学ごとに法人化」し、自律的な運営を確保
    2、「民間的発想」のマネジメント手法を導入
    3、「学外者の参画」による運営システムを制度化
    4、「非公務員型」による弾力的な人事システムへの移行
    5、「第三者評価」の導入による事後チェック方式に移行

    正直なところ、読んでいて眩暈を覚えます。
    もちろん、ろくに働かない「でもしか先生」を淘汰できる可能性があると
    いったメリットはあろうかと思います。
    しかし、「民間的発想」による「マネジメント手法を導入」し、「学外者の
    参画」等を通じて「自律的な運営を確保」するならば、結局のところ
    「その研究は(短期的に)金になるのか?」
    に行き着いてしまうおそれがあることに気づかなければなりません。

    「学外」、「社外」、「部外」、「第三者」と言えば無条件に「公正」であるかの
    ような誤認を与えてしまいますが、いわば素人ですので計算可能性に基づく
    定量的評価しかできません。「質」を判断することは難しくなります。
    冗談のような話ですが、自らの評価を高めるために一つのテーマを複数の
    論文や特許文献に分けるといった不合理な(目的合理性は高いか?)
    行動がまかり通っているようであり、私も実際に目の当たりにしたことが
    ございます。

    社会科学の分野においても、「産学共同」で進められるような研究でなければ
    評価されなくなるのであれば、アカデミズムは間違いなく衰退するであろう
    と思います。
    すぐに役に立つものは、すぐに役に立たなくなります。

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