2011年4月2日土曜日

三つの箱から世間を覗く(第46回)

「正直は無責任~東日本大震災③~」

民主党大塚耕平厚労相副大臣がTVで答えていた。
災害復興予算問題に関して、
竹中から、「復興税などもってのほか」と言われたが、
大塚は「税も含めて全ての方法を考えたい」という
当たり障りのない(つまり無内容)答を返し、
竹中に「あなたも閣僚経験がおありだから(こんな答えしかできないのは)おわかりでしょう。」と言う。

その通りだろう。
だが、私をはじめ全視聴者は心底がっかりした。
民主党の一員、菅内閣の一員ではなく、
国難に当たる一政治家、国会議員として、
信念、展望、対策を聞かせてほしかった。

「正直は無責任」という言葉が浮かんだ。

「責任」とは「困難な状況においても"準則"を守りきること」だとC.I.バーナードはいう。
大塚副大臣の立った"準則"は何だったのだろうか?

人はたった一つの準則しか持たないわけではない。
複数の"準則"を持って生活している。
その中には、自分で選んだものもあれば、
他者(親・先生・上司・社会)から与えられたものもある。
意識しているもの、積極的に守ろうとするものもあれば、そうじゃないものもある。
同一人物でも、ある立場、ある状況のとき、ある準則に立ち、
別の立場・状況のときはまた別の準則に立つ。

大塚副大臣は、党内・閣僚の一員の立場で「誠実(正直)」に応えようとしたのだろう。
聞く方も、民主党・閣僚の主要な一員としての大塚耕平に聞いたのだろう。

だが、聞く方(竹中も視聴者も)は決して納得できなかっただろう。
なぜだろうか?同じ立場の大塚耕平に聞いたのに…。

我々は、「何をしてくれるのか」を聞きたかった。
だが、彼は「これだけしかできません」を答えた。
外に視線・心が向かず、内に向いていればこのギャップが生まれよう。
公(国会議員・政治家)に立たず、私(民主党・菅内閣)に立てば、こうなろう。

なぜ、政治家が「滅私奉公」しなくなったのか?
(まぁ、「滅私奉公」自体を社会を挙げて否定してきたのだが…)

「正直」とは、「他者」に対するものではなかったか?
だが、この20年ほどは、「自分に正直」という言葉が生まれ、
メディアなどを通して、勧・薦められた。
(この流れと、「自利」に立つ「市場(原理)」がもてはやされるのは同じ流れであろう。)
「自分に正直」とは「我儘」「自己中」ということなのだが、
「我儘」も「お客の対する個別サービスを"我儘"」と呼び、「悪いこと」にしなくなった。
「自己中」も「ジコチュー」と表記されるようになった。
(このことについては、また論じてみたい。)
政治家という「公務員であり、かつ官僚=公務員の上に立つもの」が、
「私」に立ち、「公」を忘れても当然かもしれない。
東京電力の経営者の「無責任」も「自分に正直」な社会が生んだのであろう。

話が長くなってしまった。

「自分に正直」などと言い出せば、
「公」は廃れ、「責任ある立場のもの」が「私」に立ち
「無責任」な言動を「悪い」とは思えなくなろう。
大塚君だけじゃない。
彼の「親分」たる菅首相が「イラ菅」と呼ばれるのも、
「自分(の感情)に正直」だからだろう。 

1 件のコメント:

  1. 太田(3期生)です。
    アトランタ五輪で銅メダルを取ったマラソン選手が
    「自分で自分をほめたいと思います。」
    とインタビューで語り、話題になったことがありました。
    品の無い表現で大変恐縮ですが、私はそのインタビューを
    「自慰行為は人目を避けてご自宅にてお願い申し上げます。」
    との思いで眺めておりました。
    その年の流行語大賞に選ばれた際にも私は皮肉が効いているな、と考えて
    いたのですが、どうやら本当に「感動を呼んだ」ようで、自分の感覚が
    世間ずれしていることに気付かされたことを覚えております。

    「自分に正直」であり、「ありのままの自分」が肯定される社会というのは、
    建前を必要とせず本音を露出しても許されます。
    大義というのは言わば建前であり、天下国家を語る際には必ず大義を
    要するはずですが、その為政者が恥ずかしげもなく本音を晒すのでは
    自慰行為の露出が世にあふれても然もありなんと思います。

    小沢党首時代の「生活が第一」という民主党のキャッチコピーも「本音」に
    属する表現であり、私は「それを言っちゃあおしまいよ」と思いながら
    見ておりました。

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