2011年4月15日金曜日

三つの箱から世間を覗く(第52回)

「二つの"科学的" ~"正確な情報"とは?(続)~」

(1)杉山君、コメントありがとう。
おもしろいね。
「信頼」と言う言葉ではなく「責任」の方がピンと来るとは…。

杉山君が「責任」にピンと来るのは、
この問題を考えてきており、
そこでのコンテキストに「責任」が据えられているからで、
「信頼」は位置を占めていないからであろう。
「同じ」ことを指している、と言えばそうかもしれぬ。
だが、「責任」と「信頼」は重なりつつも異なる。

少し「信頼できる情報」について言葉を足してみたい。
(「責任」については、またあらためて。)
「信頼できる情報」は、「信頼できる人から発信された情報」でなければならぬ。
一旦信頼を失った政府・東電から発せられる情報は、最初から「信頼できぬ情報」なのだ。

なぜか?
この問題について「嘘」をついた前科を持つわけではない。
政府、菅内閣は、その前にすでに「別件で信頼を失っている」のだ。
では、自民党内閣だったら信頼されるであろうか?
おそらく、というよりほぼ間違いなく「信頼されない」であろう。
それは、「自民党は全然反省してなく変わっていないから」ではなく、
「政府、国家」というものは、
「国民一人一人の生命・安全より、社会の秩序・安定を優先するものである」
と、我々は知っているからだ。

東電も、もちろん信頼できない。
東電は「原発は絶対安全」と言ってきたではないか?
「津波は想定外だった?」そんな言葉が言い訳になるのか?
事故発生後の対応はどうだ?
到底「信頼」できるものではない。

「信頼」とは、
「能力に対する信頼」と
「意図に対する信頼」があるという。

政府・国家には、「能力に対する信頼」はあっても、
「意図に対する信頼」は持てない(「ない」ではなかろう)。
民主党・菅には、「意図に対する信頼」は少しはあっても、
「能力に対する信頼」は絶望的に持てない。
東電には、「能力に対する信頼」も「意図に対する信頼」も、
もはや我々にはないのではないか?

私は、だから「正確な情報」であっても、
「信頼できぬものからの情報」はみんな「安心」して受け取れないのだ。
そもそも、「正確な情報(データ)」を与えられたって、
判断できる知識・情報は持ってなく、
いや、科学者も政府も持ち合わせてはいないのだ、
と言ってきた。
(下に、続く)

(2)2011.4.15 フジTV「とくダネ」。

各家庭では、「どう安全対策をしているか?」100人に聞きました。
「水道水を飲んでいますか?」の問に対して、
(A)ある男性は、「飲まないなんて"非科学的"だ」と答えていた。

「なるほど」である。
飲んでいる人の「論理」の一つはこれだろう。

(B)ところが、別のある女性はこういう。
「これまでだれも経験したことがないんでしょう?」

これをよんでいる人たちは、どちらに立つ?どちらを選ぶだろうか?

「うーん…」
科学とは「データ」に立つ。
(A)の男性は「測定されたデータ」に基づき、
そのデータが「正確」であればOKというものだろう。
(B)の女性は、「データ」つまり、「経験」。
いくら、「データ」が「正確」であろうが、
「安全ー危険」を判断する基準は「経験(実験も含む)」である。
その「経験」をだれもしていないのだから、
本当に「安全」といえるのか?
と言うのである。

政府が情報を出しても、多くの人が口々に「正確な情報を」という。
その背景には、この女性の論理が潜んでいるのではないだろうか?
「どれだけの量を被曝・摂取したら"危ない"のか?」がはっきりしていないのだ。
基準量を超えたというのに、「食べても構いません」………?

この「矛盾」の原因こそ、この女性の、
「これまでだれも経験したことがないんでしょう?」

1 件のコメント:

  1. 太田(3期生)です。
    食品業界をはじめ様々な企業が「安全、安心」という文言を用いますが、
    (A)の男性と(B)の女性の対比は、正に「安全」と「安心」の
    違いではないかな、と思いながら読みました。
    ※辞書では「安全」を「危険がなく安心なこと」等と定義しているのですが、
    だいぶ印象の異なる文言です。

    データに基づき人体に危害が及ばないことが立証されれば「安全」と
    言えますが、そうした「安全」性の証明をもって「安心」を与えられる
    ものではありません。
    原発の建設に当たっては必ず「安全」が保証されていたはずなのですが、
    それは「安心」を与えるには至りませんでした。
    安全とはデータに基づくものですので、データを意味づける基準を
    設定する人間の知力が及ばないような事象が起きれば無力となります。

    “「信頼できる情報」は、「信頼できる人から発信された情報」
    でなければならぬ。“
    との一文も非常に重く感じました。
    同じ安全性の主張であっても誰が言ったかにより、確かに与える安心感は
    異なるかと思います。また、一度信頼を失えば、再度「安心」を与えるのは
    相当に困難なことになります。

    「これまでだれも経験したことがないんでしょう?」
    という(B)の女性の疑問は、「安心」とは何かを一言で表しているような
    気がいたします。

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