2011年4月1日金曜日

三つの箱から世間を覗く(第44回)

「安全と安心 ~東日本大震災①~」

東日本大震災(東北地方太平洋地震)が起こってから、
この「三つの箱から」もストップしてきた。
私的事情もあったのだが、
被災者の質量の大きさ・思いを考えると、
また併せて起こった福島第一原子力発電所事故の重大性・緊迫性から、
控えてさせてもらってきた。
だが、アップこそしていないが、
この間、地震に関するもの・それ以外のテーマ・問題を扱ったものを何本か書いていた。
今後のおおまかな展望が明らかになり、
世間・TVも何か「日常」に戻って来ているし、
4/1新年度を迎えたこともある。
再開したい。

だが、どのテーマから語りはじめるか、は難しいところで、
「"想定外"と対策」、「天災と人災」辺りが妥当なところなのだろうが、
書いたものの、「言いつくした」観がイマイチなので、
本日書いたものからリスタートしよう。

フランスから原発事故のための機材を借りるという。
防護服や無人機器などにより、現場の様子もわかるようになり、
危険なところの作業も可能となるという。

ところで、なぜ東電・日本は持ってないんだろうか?
(どうも、持っていたらしいが、使っていないらしい。)
同じ原発大国フランスは持っているというのに…。

「安全です、安心してください」と言っているからなぁ…。
本当に(完全に)安全ではない、「絶対に安全」などあるはずがないこと位わかっている。
だが、「絶対安全は保障できません」とは言えない。
代わりに「大丈夫なように設計・製造・建設しています」と言う。
想定範囲内で「大丈夫・安全」なのだが、
周りから「大丈夫か?安全か?」と言われれば、
「大丈夫です。安全です」と答えてきた。答えるしかなかった。
自分でも「安全」と思わねばやってこれないし、
「安全」と答え続ければ、「安心」と思い込むようになる。

「安全神話」なぞ、新潟柏原原発や福島第一原発でとうに崩壊しているのに、
「安全ではない」と言わなく、言えなくなってしまった。
「安全ではない」言えなくても、言わなくても、
「安全です」、「安心してください」と言い続けていると、
「安全だ」と自分でも思うようになってしまっても、驚くにはあたるまい。

「安全じゃない」と言えなくなり、「安全だ」と思うようになると、
(こっそりとでも)現状以上の安全策はとろうと思わなくなり、
たとえ、とる必要が出てきても、
「こういう安全策を取ります(追加します)」と言えば、
「じゃ、今までは(十分に)安全じゃなかったのか?安全だと言ってきたじゃないか!?」
と思わせたり、言われたりし、
「その追加的安全策をとっても、まだ安全じゃないだろ?」
と、思わせたり、言われるようになる。
だから、言うことができないだけじゃなく、
より安全にすることもできなくなったのであろう。

最初に嘘を言ったら、その後本当のことをいうことができなくなるように、
最初に「(絶対)安全です」と言ったら、
そのあと「危険です」どころか、「より安全にします」とさえ言えなくなる。
「○○神話」とよく聞くが、その危険性は認識されていると思えない。

電力業界・電力会社だけではあるまい。
「○○神話」がないように見える業界・企業であっても、
「生産・製造」や「提供する商品の品質」が存在する限り、
「安全・安心」と無関係ではありえないのだ。
現代社会に生きる者は、「生産者」と「消費者」、そして「利害関係者」の観点を忘れることはできまい。

東電・電力業界以外の人たちにとって「他山の石」とならねばならぬのに、
この事件から「学ぼう」とどれだけ思って、実行しているだろうか?
どうも、被害にあった工場・営業所をどうしよう、
停電で大変だ、に終始していて、
どこか「対岸の火事」だと思っているように感じる。

だから、東京電力は、
JR西の福知山線事故や三菱ふそうバス・トラックのリコール隠しや、
刈羽原発事故からさえ学べずに、
今回の事故を引き起こしてしまったのではないだろうか?
福島原発事故は「絶対安全」では「絶対にない」ものを扱い、
その「危険性」は比類のないものである、という特殊性がある。
だから「学べなかった」面もあるように思える。
根本的な「誤り」に立っていては、何物も無益であり、無理であろうから。
だが、多くの事業・業種は、
「学ぶ」ことができ、
「学ば」ねばならず、
「学べ」ば、避けられるのではないだろうか?

卒業生も現役生も、
この未曾有の大事故・大事件から学ぼうとする姿勢がどれだけあるのかが、不安になった。
だから、最後に、くどく、くどく述べてしまった…。
学んで欲しい。
「明日は我が身」を否定できる会社・業界は少ないのではあるまいか。

0 件のコメント:

コメントを投稿