2011年5月28日土曜日

三つの箱から世間を覗く(第89回)

「AKB48の総選挙」

○AKB48の総選挙がまた行われる、とTVが騒いでいた。
選挙権をCDを買うと得られるという。
1枚買うと1票得られるから、一人で何十枚も買うものもいるという。
(一人で1,000枚買った若者(bakamono?)がTVで取り上げられていた。
彼の部屋は、箱に入ったままのCDが何十箱もあった。)

○何に興味を持ち、何に金を使うかは自由じゃないか、とひとは言う。
だが、「善悪」「賢愚」は問うに値しないことだろうか?
若者が貴重な時間を割いて(勉強等ではなくバイトで)得た金が、
そのようなものに使われる。

人は、与えられた選択肢の中から選択し、
また、その社会・集団の価値観に従って選択する。
「AKB48の総選挙」というイベントの参加権ならまだしも、
CD1枚(2,500円位?)につき1票の投票権を売りつける。
聞くだけなら1枚、最近のようにコレクションとしてもせいぜい2枚しか売れないところを、
何枚、何十枚、何百枚と買わせる。
自分のこのみのアイドルをスターダムに押し上げる、
パトロンとしての行為を普通の若者に与える「革命的意義」がある、
と見ることも可能であるが、
「革命」だからといって、「善」である保証はない。

彼は何十枚、何百枚買って、(金の使い方として)一時的に満足しようとも、
自分の未来を切り開くための投資にはなるまい。
だから、十年、二十年、または三十年たった時、
その何十枚、何百枚の(同じ)CDを見て、
満足するだろうか?後悔しないだろうか?

いや、たとえ、本人が後悔しなくとも、
若者の未来の投資として、貴重な時間と金を本人・親・社会は注ぎ込む。
私は、その期待に応えることを仕事・職業としている。

その若者を、かくも愚かな(「と私は思う」、と断らねばならぬ「愚かな」社会)行為に駆り立てる。
(いくら合法的であっても)許される行為なのであろうか?

○ラジオでも取り上げていた。
5/26(木)TBSラジオ「荒川強啓デイ・キャッチ」で、
山田五郎は、「聞きもしないCDを一人が何十枚も買うとなった時、
「売上ランキング」に意味がなくなる。」批判していた。
(事実、宇多田を抜いて1位となった!?)

しかし、荒川強啓は「うまいことを考えますねぇ…」というばかりである。
確かに、ほとんどのものが。秋元康の商売のうまさに感心しているであろう。

「自分が応援するアイドルをスターダムに押し上げる快感・満足を与える」
ことを商品化したことは「革命的」であろう。
「握手券」「投票券」を付けることにより、そのおまけ目当てで、複数買わせる。
かつての「ビックリマンチョコ」の商法と同じだ。

「ビックリマンチョコ」の商法は、
シールをとった後のチョコ自体が道端に捨てられていたりして、
(本当に捨てられていたかどうか?TVだから…。)
社会的に非難されたのではなかったか?

子供相手なら許されないが、若者相手ならいいのか?

本人も・誰も気付かなかった「欲望」に応える。
持っていなかった「欲望」を持たせる。
その「欲望」を満足させることまで「善」とするが、
「悪」ではないのか?

(私は最初、この文を、「天国と極楽」のところで、
AKB48関係者の誰が天国・極楽に、誰が地獄に、
という問題として取り扱おうか、と考えていたが、
ひとの死・不幸を予想・願うようなものは、
受け入れがたいのではないか、と思い、この形で論じている。)

○何が「幸福」、何が「満足」かなど、絶対的なものなどない、と言う。
何が「愚か」かなど、決められないじゃないか!と言う。
そのくせ、島田紳助の番組やQサマなどを見れば、
「賢い」は客観的にある、と思っているようだ。
しかし、その「賢い」は、
「知識が多い」=クイズい強い。
「テストの点が高い」
「金儲けがうまい」
「他者に先んずる(出し抜くでも可)」
でしかない!!!!!!!!!!!

全体的・総体的・社会的ではなく部分的・個人的に、
長期的ではなく、その時・短期的に、
「合目的的」であれば「賢い」という。
そう、「市場原理」「市場社会」の「経済人」だ。

「常識」「伝統」「倫理」を大切にするものは、「囚われている」とし、
合法的であれば、否定・破壊して「結果を出す」もの(イノベータ―)は「賢い(優れている)」という。
(そのくせ、驕ると、寄ってたかって「犯罪者」に仕立て上げる。
ホリエモンや村上のように…。)

社会は「法」と「規則」だけでは秩序化できない。
常識や、倫理・道徳という社会で共有された価値観・美意識が必要である。
市場社会は背後に(同時に)市民社会を有し、そこには宗教と都市共同体の伝統・慣習という、
共有された価値観・美意識が必要である。
現代日本は、その必要不可欠な価値観・美意識を「目の敵にする」かのようだ。

「しなくてもよいことはしない」
その判断には「見識」がいる。
「儲かるとわかってもしない」
その決定には「意志(覚悟)」がいる。

「豊かな社会」は「金にあくせくしない社会」であろう。
だが、現実は、「金をどれだけ儲けたか」で評価される社会となっているようだ。

1 件のコメント:

  1. 太田(3期生)です。
    先生の書かれた内容を「これはまるでビックリマンチョコだな」と思いながら
    読み進めていたところ、本当にその後にビックリマンチョコを紹介されて
    いたのでビックリいたしました。
    これは「大人がいない」という先生の嘆きにもつながる内容ですが、
    法に抵触しない限り何をやっても良いというのは大人の姿勢ではありません。

    分かりやすい判断基準としては
    「自分の家族にその商品・サービスを提供したいか」
    であり、自分の家族には受け入れてほしくない商品やサービスで利ざやを
    稼ぐような人間は少なくとも大人ではありません。

    これは商品・サービスの提供者のみならず、それを評価する人にも同じことが
    言えます。
    人が思いつかないようなアイディアで利益を稼ぐ人を褒めそやす一方で、
    そのアイディアに家族が触れることを避けるような人間は信用できません。

    「菓子メーカーX社は大容量のスナック菓子で積載効率や単価を上げ、
    増収増益に繋げたそうだ。」
    「ほう。頭いいな。目のつけどころが良いじゃないか。」
    「じゃあお前の子供にその馬鹿でかい菓子を食べさせたいか?」
    「いや、それとこれとは…。」

    “需要と供給とが合致しているのだから第三者が口を出すべきでない。”
    “必要ならば法律で規制すべきだ。”
    という一見正当な主張は大人としての見識の不要を前提とするものであり、
    あまりに子供じみたように映ります。

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