2011年5月15日日曜日

三つの箱から世間を覗く(第78回)

「"東京に原発を"の覚悟を持てるのか?」

○もう、20年以上も前になるだろうか、広瀬隆『東京に原発を』という本が出た。
(今、集英社文庫になっている。)

この「東京に原発を」論は、「極端」だろうか?
なぜ「東京に原発を」作らないのだ?と聞かれたら、と何と答えられるだろうか?

答えは二つ。
①東京でもし事故が起きたら、どうするのだ?
②東京は地価が高い。

②は、送電ロス・コストを考えたら、成立するか?
①しかあるまい。

もし、事故が起きたとき、
政治・経済・文化の中心で人口密集地である東京は、「高くつきすぎる」。
同じリスクなら、よりコストが低い地方を選択する、ということか。

リスク(危険性の甘受)の代償としての、
電源三法(金)や雇用ではないか?
なら、経済・雇用問題の解決手段として東京では意味なし、となる。

「答:都には金も仕事もあるので、危ない原発は嫌だ!
   地方は、金も仕事もないので、危ない原発でも受け入れる。
   東京は地方の「貧しさ」に付け込んでいる。」

これを、「ズルイ」とか「キタナイ」とか言えるだろうか?

○「極端な」議論が「現実」を浮き彫りにする。

「東京に原発を」論を詰めていくと、
「なぜ、原発を地方が受け入れているか?
 なぜ、一ヶ所に複数基集まっているのか?
 という「現実」がはっきりする。

○何が「現実」か?

・経済や便利・快適な生活という「現実」を前提にする。
・原発による交付金・税・雇用という「現実」を前提にする。
・もし事故が起きた時に失うものの大きさと、起きる可能性がある、という「現実」を前提にする。

「現実」なんて、各自の「価値観により選び取られたもの」に過ぎないことがよくわかる。
いくら正確かつ大量の「科学的データ」があったところで…。

だから、「(安全)神話」が必要だし、成立した。

○「安全神話」が崩壊した現在、
・あなたは、東京・横浜も原発を引き受けますか?、
・それとも、地方の「貧しさ」に「付け込み」続けますか?
・それとも、電気を20~30%我慢しますか?
 (経済への影響を考慮するなら、家庭は50%か?)

○ところで、本当に「安全神話」が崩壊したのだろうか?
 この危険性のすさまじさは、
 原発で事故に対応している人たちと、
 避難している人たちと、
 出荷制限・風評被害を受けている人たち
 が感じているだけではないのか?

 知れば知るほど、これだけ「危険」なものなのに、
 (例えば、福島原発の敷地にある、汚染された瓦礫はどうするんだ?)
 「原発停止、反対」の世論が高まらないのは、
 「安全神話」から覚めていないのではなかろうか?

○以下に引用したblogがあった。
同じテーマを扱っても、違った議論になるケースとしても、面白い。


「ビジネスのための雑学知ったかぶり」

なぜ東京には原発を作らないのか
東京に原発を作ったらという提言があります。
元々は広瀬隆氏の「東京に原発を」という著作で出てきた考えなのですが、
これを主張する人はほとんど全て原発に反対する立場です。

それならなぜ東京を原発を作ったらなどと言うかというと、次のような理屈があります。
(1) 原発が絶対に安全なら、東京のそばに作ればよい。そうすれば送電設備や送電ロスが大幅に節減できる
(2) もし原発が危険だから東京の近くに作れないと言うなら、
原発が建設される地方の人の命は東京の安全のために犠牲になってよいのか。
これは差別そのものではないか

一理あるようにも思えますが、反原発派の人が「東京に原発を作ればいい」と言う時には、
「原発は絶対安全みたいな嘘っぱちを言っているが、いざ東京に原発を作ることになると、なんだかんだ言って作らない。
それは結局原発が危険だということを白状していることだ」という思いが底にあります。

東京に原発作ったら論(以下、東京原発論)のおかしいのは、
それを主張している(というかディベートでの逆説的ロジックとして使っている)人達に、
「あなたは東京と地方のどちらに原発を作るべきだと思いますか」と聞いても、
恐らく「私は反原発論者なのでどちらも反対です」と答えるだろうということです。
あるいは「原発が絶対に安全だと言うならどちらでも構いません。
むしろ送電コストの安い需要地近くに原発は作るべきです」と言うかもしれません。
「絶対安全」なものなどありませんから、これも原発はどこにも作らせないと言っているのと同じです。
つまり東京原発論は原発建設阻止のための単なるレトリックに過ぎず、質問などではないということです。
質問でなければ答えても仕方ないのですが、東京原発論を思考実験として考えるのは無意味でもないでしょう。
少なくとも送電コストが下がるのは嘘ではありません。

まず、本当に東京周辺、たとえば羽田空港跡地とか、木更津の工場地帯あたりに作るとします。
そうすると現実には大変な反対運動が起きるでしょう。原発は普通過疎地に作るので、
原発建設に伴う地域振興策や、原発による様々な税収、雇用機会の増大が原発い推進の力になりますが、
そのようなものは東京周辺では全く役には立ちません。
要は実際に東京周辺に原発を作ろうとすると反対運動で身動きが取れなくなることは確実です。
反原発派には「そのような原発反対をきちんと説得できないのは原発が危険だからだ」ということになるでしょうが、
どんなに説得しても反対論がなくなることはあり得ません。
中国電力が計画している上関原発などは10年以上激しい反対が続いています。できないものはできないのです。

しかし、このことばかり言っていると、
原発には反対だから東京であろうと地方であろうと原発建設はダメと言っているのと同じことになってしまいます。
そこで、実際とは違いますが反対運動の強さについては東京と地方は変わらないと仮定してみましょう。
東京にもいざとなれば原発は作れないこともないという仮定です。
原発は大事故があれば広範囲に甚大な被害をもたらします。

しかし実際には、原発が実用化されて50年以上たち現在世界に500基の原発がありますが、
原発外部に多大な被害が及ぶような事故は1986年に旧ソ連のチェルノブイリ原発で起きたものだけです。
チェルノブイリの原発は黒鉛を使って中性子の減速を行うソ連独特の方式で、
それが大量の放射能を帯びた黒鉛を大気中にばら撒いて被害を拡大したということがあり、
また原発の構造や運用管理体制が日本と比べれば劣っていて日本で同様の事故は起きないだろうという指摘はありますが、
それを割り引いても被害の大きさは衝撃的なものです。
チェルノブイリ原発での事故直後に周辺住民の死亡はありませんでしたが
(消火作業にあたった消防士、兵士には数十名の死者が出た)、
その後の放射能の影響による癌、白血病などの発生で死者は最終的には数千名から数万人およぶとも推定されています。

チェルノブイリのような大惨事が起きる確率は一つの原発では2万年に1度程度と計算されています。
これはPSA (Probability Safety Analysis)という分析手法で予測したもので、
日本の原発に対しては、さらに小さな数字が得られています。
2万年に一度という事故の確率は、他の事故、飛行機や自動車事故と比べればかなり小さいと考えられます。
数字の上では原発周辺に住むことは特別に危険ということはありません。
それより都会に住んで、隣の家の火事やガス爆発に会う確率の方がよほど高いでしょう。
それに、仮にチェルノブイリ級の事故が発生しても、
原爆が落ちたように一帯が根こそぎ皆殺しになるようなことはありません。
ほとんどの人は生き延びることができます。

しかし、住民の命は大丈夫でもその原発周辺の地域は住むことに全く適さななくなる可能性があります。
原発が東京にあれば東京は失われることになります。
しかし、原発が人口や都市密度の低い地域にあれば、大事故があっても被害を小さくすることができます。
これは地方の住民を差別していると言えるのでしょうか。
そうではないと思います。飛行機は墜落することがありますがアメリカ大統領も飛行機に乗ります。
墜落の可能性は十分に小さいからです。
しかし、正副大統領が同じ飛行機に乗ることはありません。墜落の被害がずっと大きくなるからです。

原発が実用的であると言えるのは事故の危険性が十分に小さいからです。
東京原発論が誤りなのはわざわざ原発事故の被害を大きくすることになるからです。
想定被害を小さくすることは差別とは無関係です。
この論理は原発が新たに建設される地域の住民にとって十分に納得できるものではないかもしれません。
なんだかだ言っても結局は過疎で財政の逼迫している地方を
札束で頬っぺたを引っぱたいて危険を背負わせているだけだと感じるかもしれません。
2万年に1度と言ってもそれは来年かもしれないし、住民のほとんどは助かっても自分は死ぬかもしれません。
そのような不満、不安に十分に答えることは難しいでしょう。
飛行機なら乗らずに済むかもしれませんが、原発ができてしまえば原発事故の危険が生じるのは間違いありません。
しかし、東京原発論は奇妙なレトリックで原発絶対反対を言い変えているのに過ぎません。
原発の即時全廃ができないのなら、そのような議論は意味がないのです。

遠隔地に作られる原発は、地方の人間の命を東京の人間の命より軽んじ、
地方を東京のための犠牲にしているといった飛躍した論理にいたっては、
ほとんど言いがかりの域に達していると思います。
5階建てのマンションを木造で作ることを認めないが、
2階建ての個人用住宅は許されるのを、個人住宅の住民を差別していると言うのでしょうか。
被害を最小化しようというのは差別とは無関係です。

東京原発論は、原発の立地のような重大で困難な問題をすり替えて、ただ茶化しているだけです。
原発に反対することは色々な理由があるかもしれませんが、問題をすり替えてみても解決はできません。
問題は正面から解くしかないのです。

(http://realwave.blog70.fc2.com/blog-entry-273.html)

このblogは、なかなか面白い。
これに対するコメントも一緒に見ると、面白いぞ。

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いささか、長くなってしまったが、
同じテーマなので、ここで一挙に扱いたい。

Yahoo!知恵袋に、このことが「質問」になっていた。

「電気をたくさん東京で使うくせに原発は東京に作りたくないって都民はずるい。」
(http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?page=2&qid=1258907242#sort)

を見てみないか?
140人からの意見が、出ているらしい。

○この問題が、これだけの関心を集めている。
○(全部見たわけではないが)
 この程度の知識、いや、
 問題の複雑性に立った、多様かつトータルな視点の欠如
 で、「私の考え・意見」を主張する。

「都知事選の結果」がわかる気がする。

 

1 件のコメント:

  1. 太田(3期生)です。
    “なぜ、原発を地方が受け入れているか?
    なぜ、一ヶ所に複数基集まっているのか?
    という「現実」がはっきりする。”
    とのご指摘から、この「現実」は原発固有の問題でもないのだと
    気づかされました。
    これは言わば国内の南北問題のようなものであり、産業廃棄物の
    最終処理場やポリ塩化ビフェニルの処理場についても同じことが
    言えるかと思います。

    また、“「現実」なんて、各自の「価値観により選び取られたもの」に
    過ぎないことがよくわかる。“
    とのご指摘から、客観的な「現実」と認識していた南北問題も
    一つの偏った価値観から選び取られたものであることに改めて
    気付かされます。
    「発展途上国」という表現自体、「アメリカ大陸発見」と同じくらい
    一方的で驕り高ぶったものであり、当該国は発展途上とは認識していない
    かもしれません。
    原発や産廃処理場の建設に反対している人が見ている「現実」は、
    電源三法等の前提となっている「現実」とは全く異なるのだと思います。

    ※問題の複雑性に立った、多様かつトータルな視点の欠如という
    ご苦言は、正に自分にも当てはまるものであり耳が痛い思いがしました。
    この部屋は様々な事象を通じて視座を高く、視野を広くするために
    学んでいく場だと理解しておりますので、拙いながらもコメントを
    残しながら少しでもトータルな視点を身に付けていきたいと考えております。

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