「長門裕之の訃報」
長門裕之が逝った。
キャリアを簡単に紹介した他、
流された映像の3/4は、妻・南田洋子を看護するものだ。
○女優の老いさらばえただけでなく、演技ではない姿を、
(多分)理解して同意していないものを、撮り、流す。
「妻への贖罪」だの、「人間は誰でも老いる。その老いの姿を。」と、言う。
ナルシズムじゃないか!
浮気のし放題で、好き勝手をやり、妻に苦労を掛け通しだった。
その妻を「贖罪」と「老い」の手段・題材に使う。
献身的な妻への看護を「立派」とTVは言った。
金はたっぷり持っているのだから、
映像に映し出される以外の看護は、他人に任せることは可能だ。
(その事実を私は確認していないが)
私は、これほど身勝手な男の姿を世間が賛美するのを何年か前に見て、
何とも言えぬ不快感を感じた。
二人が映っているが、映されているのがわかっているのは長門一人。
そして、コメントされるのも長門一人。
(南田洋子は長門に看護されている対象としてのみ語られている。)
○今回、長門裕之の訃報を伝えるにあたって、
この「無残で、身勝手な、他人に見せるべきではない(と、私は思う)」映像、
ほぼそれだけで長門は「紹介」された。
これまで、このように釈然とせず、逝ったものを悼めない訃報報道はかつてなかった。
彼は、映画俳優であり、優れた作品もいくつもあろう。それを、作品名を流すだけ…。
映像の時間の配分から見れば、長門裕之は俳優ではなく愛妻家(献身的看護をした夫)であった。
美人女優の「老いさらばえた姿」の方が、見たいと思う視聴者が多い、という判断と、
この「刺激的なもの」を自分たちも見たいと番組製作者は思ったのではないか?
長門の「(愚かなナルシズムによる)看護フィルム」は、
南田洋子を2度、長門裕之を1度(2度)「辱めた」。
TVは、長門の「愚かさ」を利用した。
このフィルムで1回商売したのだから、
今度は、「情け」を持ってやってほしかったなぁ…。
(※)このフィルムに関する是非はいろいろあるかと思う。
だが、南田洋子の立場に立てば、
今回の訃報の流し方を見れば、
私は「愚行」だと思わざるをえない。
太田(3期生)です。
返信削除認知症になった往年の大女優を世間の好奇の目に晒すという行為は
暴力以外の何物でもないと考えます。
どれほどの大義名分を立てたところで、「夫による献身的な介護」をテーマと
したところで、「あの南田洋子が」という好奇の目で見られることを
予想できなかったはずはありません。
もちろん確認はできないのですが、女優さんの多くは年老いてからも
信じられないほど綺麗なままであることからすると、本人としても老醜を
放映されることは本意でなかったものと推察します。
ただ、亡くなった途端に一つの側面でのみ評価するという姿勢は
今回の長門裕之に限ったことでなく、この理由が気になっています。
手塚治虫の異常とも思えるほどの嫉妬心は「ヒューマニスト」との
肩書に塗りつぶされ、ジョン・レノンの如何にもロッカー然とした
立ち振る舞いや確執は「愛と平和のミュージシャン」のイメージで
ものの見事に掻き消されていたかと思います。
死者を悪く言うまいと慮るのは分かるのですが、おそらく作り手側も
本人の功績や人物の全体像から懸け離れていることには気づいており、
また死者を偏った側面からのみ評価したところで特段視聴率が上がる
わけでもないように思えます。
どうにも不思議で答えが見つかりません。
中村(20期)です。
返信削除私の家族も、メディアで著名人の訃報のニュースが流れるたび、
「生前は行いをこっぴどく責めたてておきながら、亡くなった途端に「手のひら返し」をするのは納得できない…」
と、両親並んで渋い顔をしています。
私も、故人に対して亡くなった後まで責め立てることが、余りいいことだとは思いません。ただ一方で、メディアが公に対して一度発した言葉には、やはりそれなりの責任が残るだろうと思います。
メディアが、それまでの批判が無かったかのように「手のひら返し」をすることは、批判はするけれどもその言葉に責任はもたないというその姿勢が透けて見えるようで、嫌気がさすのかもしれません。
少なくとも、「なかったこと」にすべきではない。公に向かって発信する限り、それなりの覚悟と責任をもって、言葉を発するべきではないか…と思います。
また、亡くなった途端にメディアが故人の角の立たない情報だけを選択的に流すようになるのは、残った者としての負担を軽減する意味もあるのではないかとも思います。
普通、誰も死者に対して亡くなった後も責め立てたいとは考えていません。しかし、故人の行いに何か問題があったとしてしまうと、その責め立てまいとする心とは裏腹に、「ただのいい人で終わらせてはならない」必要性が生じてしまいます。
一つの触りのいい側面の情報だけでくくってしまうことで、その人の死を単純化すると共に「いい人であった」という総括を与え、「もう考える必要のないもの」にしているのではないかと感じます。
本来、もっとじっくりと、その人の死に向かい合う時間があっていいのではないか、と思うのですが…。