2011年5月3日火曜日

三つの箱から世間を覗く(第68回)

「心は見える」というACのCM

電車の中で3人の生徒の内、一人だけが、
女性が妊婦に席を譲っている所を見る。
その生徒は、(躊躇いながらも)石段を上る老人の手助けをする。

「見たもの」だけが「学んで」いる、「変わる」。
ふざけている他の二人は「見ていない」。

なぜ、「(席を譲っているところを)見た」生徒は「見た」のだろうか?

このように、「問う」ことから、「仮説」を出すことができるようになる。
みんな、考えてみたらどうだ。

随分前に"gunbo"なる人物から、「心は見えるか」に質問が出ていた。
"gunbo"なる人物の正体が不明であるため、どう答えるべきか迷った。
他に言いたいテーマが、次々にあったので、このテーマ置いてきた。

皆の答に絡めて、私の考えを語りたい。

1 件のコメント:

  1. 太田(3期生)です。
    「心そこにあらざれば見えども見えず、聞けども聞こえず」
    当たり前の回答ではありますが、人には見えているものが自分には
    見えないという現象について「問う」てみたところ、この答えしか
    浮かびませんでした。

    ここでの「心」とは関心・感情のほか、○○すべきとの道徳心も
    含まれるように思われます。
    学生時代に、先生から「ウサギとアヒルのだまし絵」を題材として、
    人は先入観なくして対象を認識することはできない、「○○として」
    しか理解することはできない、ということを教わりました。
    ウサギを知らない人やアヒルを知らない人にとって、あの有名な
    だまし絵はだまし絵として機能しません。ウサギとアヒルの両方を
    知っている人にとってだけ、だまし絵として機能します。

    「おばあさんが立っている」ことは見えても、「お年寄りに席を譲る
    べきである」との道徳心がなければ、「席を譲るべき人が立っている」
    とは見えづらいような気がいたします。
    ただ、これは本題から外れてしまうのですが、「席を譲るべき人が
    立っている」ことまでは見えても、実際に行動に移すには、そうした
    行動が当たり前であるという文化・風潮が必要と感じました。
    以前に電車に乗っている際に、金髪の若い外国人女性が、離れた
    ところに立っているおばあさんのところにわざわざ声をかけに行き、
    たどたどしい日本語で席を譲っているのを見たことがあります。
    それがあまりに自然に振る舞えていることに驚きを覚えました。
    自分には出来ない。⇒なぜ出来ないのか。
    ⇒何となく気恥ずかしいから。⇒なぜ気恥ずかしいのか。
    ⇒ほかの人がしない(であろう)から。
    非常に情けない結論ですが、「見える」心のほかに、見えたことに
    基づき「行動できる」だけの心が必要と思えます。

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