2011年6月3日金曜日

三つの箱から世間を覗く(第90回)

「信頼なきリ-ダー~菅首相は"良いこと"をしても、なぜ"思いつき"と言われるのか?~」

菅首相は、何をしても、何を言っても、評価されない。

消費税について口にしないのは無責任だ、と言われていた。
かねてから、「最も危ない原発」と言われ、浜岡原発の危険性は指摘されていた。
"原子力から自然エネルギーへ"が福島原発事故後の日本の世論ではなかったか?

世論・社会・マスコミが要求していたことばかりであり、
その決断には大きな賞賛こそ相応しいのではないのか?

にもかかわらず、「思いつき」「プロセスが見えない」と批判される!?

どんなに「良いこと」を言ったり、やったりしても、
その人間が「信頼」されていなければ、評価されない。

「信頼」には、「能力」に対する信頼と、「意図」に対する信頼がある。
きちんとできる「能力」を持たぬやつに(信頼できないから)、任せることはできない。
「能力」はあっても、その能力を自分の利益ばかり図るやつ(「意図」は信頼できない)にも任せることはできない。

菅首相には、「実行力」がない、「リーダーシップ」がない、と
「能力」に対する信頼がないようだが、
その「能力」に対する信頼もよりも、
「意図」に対する信頼がないのではないか?

「意図」に対する信頼がないから、
すべてが頼りなく、ダメに見えるのではないか?

やり方、言い方はともかく、
浜岡原発停止要請などは「実行力」がないということにはならないのではないか?
本人は、「実行力」がない、「リーダーシップ」がない、
と言われるのは全く納得できていないだろう。

「菅さん、あんたは”ええカッコしたい”だけで、
総理の椅子が欲しいだけであり、
国民のため、被災者のため、という考えは持っていない。
少なくとも、みなそう思っている。
あなたには"動機・人柄(意図)に対する信頼"がないのです。」
と、言われれば、不愉快だろうが、黙らざるをえないのではないか?

と、ここまでを一昨日に書いていた。

そして、昨日・今日の「菅下ろし、内閣不信任決議」騒動で、
菅という人間は、本当に「信頼」できないことが満天下に明らかになった。
鳩山前首相の、なんとか国会運営と民主党を守ろうとする努力を無にする発言には、耳を疑った。
(菅にとっても救いの神ではないのか?)

大切な同志に嘘をつき(鳩山は甘いが嘘をつく人間ではあるまい)、
不信任決議に反対した民主党員まであきれさせ、失望させる。
国民は皆、唖然以上の驚きを与えたのではないだろうか?

これほどの「食言」、これほどの「手の平返し」を、
国民の前で演じることができるのは彼の人格もあるだろうが、
岡田幹事長、枝野官房長官の発言を聞くと、
この政府首脳陣は「視野狭窄」に陥っているのだろう。

自民党が仕掛けた、民主党を分解・弱体化させんとして菅ー小沢の不仲に付け込んだ策に乗った議員を許さない、
という論理・感情はわからないわけではない。
だが、「大義」のために以下に妥協・調整していくかが「政治」というものではないのか?
「理想家(夢想家)」鳩山が政治家として、まとめ、事を収めたというのに…。
松木謙公の処分を即日発表するのも、いかにも余裕がない拙速というべきであろう。

この内閣首脳陣は、国家どころか自党(全体、未来)すら視野に入っていない。
「意図に対する信頼」がなく、「自分」だけしか目に入らないリ-ダーなど、
「危険」以外の何物でもあるまい。

菅を退陣させるのに、自分達(自党)でできず、野党の策に乗っかる「造反組」と、
「嘘と力」で押し通そうとする首脳陣。
民主党は、「能力」と「意図」のどちらの「信頼」もできないことが明らかになった。

私は、この菅の食言と幹部たちの「鉄面皮」にショックを受けている。
好意的に見れば、大震災と原発事故に押しつぶされそうになっているのだろう。
だが、「(能)力」無き者は「信」じることはできず、
「信」無き者に「(権)力」を与えることはできない。

自民党もどれほど違うだろうか?
経済・財政問題、領土問題、温暖化・エネルギー問題などに加えて、
大震災と原発事故。
まさに「国難」と言えよう。
だが、その「国難」に立ち向かうものが、かくも非力・低劣では…。
それに代わるものすらいない。
このことこそ「真の国難」ではあるまいか…。

にもかかわらず、国民は絶望していないようである。
「楽観的」だからではあるまい。
「どうでもいいから」であろう。
「民主党も自民党もダメだ」と言ってすませることができるのだなぁ…。

1 件のコメント:

  1. 太田(3期生)です。

    自分が発した意見では納得しなかった人が、ほかの人の発した全く同じ
    意見に納得するのはあまり気分の良いものではありません。
    たとえば、部下の諌めには耳を貸さずとも、組織外からの同じ諌めには
    直ぐに反応するような人というのは部下からの信頼を失いがちです。
    若いころの経験もあり、私はできる限り「誰が」言ったかではなく、
    「何を」言ったかで物事を判断するように心掛けています。

    一方、先生の
    “どんなに「良いこと」を言ったり、やったりしても、
    その人間が「信頼」されていなければ、評価されない。”
    との一文を読み、厳しいけれどもこれも現実であると思い直しました。

    “「信頼」には、「能力」に対する信頼と、「意図」に対する信頼がある。
    きちんとできる「能力」を持たぬやつに(信頼できないから)、
    任せることはできない。
    「能力」はあっても、その能力を自分の利益ばかり図るやつ
    (「意図」は信頼できない)にも任せることはできない。“

    ここでの「能力」には、単なる専門家としての力量のみならず
    その人の経験や実績が含まれるかと思います。
    また「意図」には、単に私利私欲に端を発するものか否かだけでなく、
    その人の日頃の立ち振る舞いや言動から醸し出される人間性も
    含まれるのではないかと理解しました。

    そう考えますと、たとえ公のための正しい発言であっても、
    能力や人間性を判断するだけの付き合いがない相手からの言葉を
    受け入れ難いのは当然ですし、また救いようのない軽さ・幼さが
    感じられる為政者の言葉が届かないのも致し方ないかと思われます。

    麻生元首相についても、どれほど良いことを発言しても受け入れられ
    なかった印象が残っているのですが、秋葉原における演説で若者に
    媚を売ったことなどから与えた「軽さ」によって、「意図」に対する
    信頼性を失っていたのかもしれません。

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