2011年5月23日月曜日

三つの箱から世間を覗く(第84回)

「児玉清と長門裕之」

長門裕之の訃報に絡めて、彼の生き方とTVの取り上げ方について述べた。

児玉清の息子が言う。
彼は家族には、「(自分の仕事に)自信がない」と言っていた。

「畏怖心」「畏れ、慎み」が言わせた言葉ではないか?
若手の俳優に対するアドバイスや、
中学時代の友人達との交流のあり方を聞くと、
彼の知性による配慮というものを感じる。

彼が言った言葉が紹介された。
「亡くなった人に贈るものは、悲しみではなく、感謝だ。」

「なるほど」と大きく頷かせる言葉じゃないか?

だが、周りの人々に、感謝されぬ生き方をしていては、
悲しんでももらえまい。
この言葉は、残されたものに求められる姿勢と、
逝くもの(の生前の生き方)に求められる姿勢の両面があるなぁ…。
そして、難しい…。

本を読むことが本当に好きだったという。
書評番組を持てるというのは相当のものだろう。
棺にも読みかけの洋書を含めた数冊の本が入れられたという。

感性と知性で自分を作り上げていったのではないか、と感じる。
ただ、両方を持っている、というのではなく、
知性で感性の方向性を定め、
その感性でキャッチしたものを知性で自己のものとする。
勿論、児玉清に関してTV以上の情報はない。
(博多華丸の「その通り!」「アタック・チャンス!」が浮かぶ、
と言えば、その程度はわかってもらえよう。)

これに比べて、長門裕之の「幼さ」はどうか!
俳優としては評価はされているようだから、人並み以上の感性を持っているのであろう。
だが、その振る舞いは、妻や多くの人を傷つけた本を出したことを筆頭に、
枚挙の暇がなさそうである。

(「感性」の差は別にして)
二人の差は「知性」の差ではないだろうか?
人を見る、自分を見る(顧みる)時に、
「知性」のフィルターを通すこと、
「知性」のコントロールが大切なことを、教えてくれているのではないだろうか。
「知性」が、児玉清に「配慮、畏れ、慎み」を与えていたのではないだろうか。

同じ77歳で逝った二人の生き方。
考えさせられる。

1 件のコメント:

  1. 太田(3期生)です。
    “亡くなった人に贈るものは、悲しみではなく、感謝だ。”
    という言葉には、確かに「なるほど」と大きく頷きました。

    なかなか想像できるものではありませんが、亡くなった方からすれば
    残された者が悲しむことは望まないかと思います。
    “残されたものに求められる姿勢と、逝くもの(の生前の生き方)に
    求められる姿勢の両面がある“
    とのご指摘にも納得しました。

    立場は逆になりますが、飛行機の墜落事故の際、死を覚悟した乗客が
    家族や友人等の親しい者に送る電子メールの内容は、
    苦労を掛けて申し訳なかったという「謝罪」と、
    今まで本当に有難うという「感謝」とが
    大半を占めると聞きます。

    あのとき誠実に詫びておきたかった、
    もっと感謝しておきたかった、
    と後悔することのないように自他を大切に暮らしていけば、
    自ずと逝く者の生前に求められる姿勢に近づけるように思います。
    分かっていてもなかなか出来ません。
    見送る立場か見送られる立場が近づいて初めて焦りだすようなことが
    ないようにしたいものです。

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