2011年6月19日日曜日

三つの箱から世間を覗く(第95回)

「徳無き者は去れ、菅首相は即刻辞職すべきである ~信と徳②~」

(承前)
しかし、"論理"は限定して成り立つものである。
いくら、"論理的に正しく"ても、
"納得"できるかどうかは、別問題である。

「何・どこが"納得"できない」のであろうか?
そもそも、菅内閣に対しては、国民は信任していなかったのではないか?
民主党に対しても信任(信頼)していない、というところまでは戻るまい。
菅首相ではダメだ、とは思っているから、
菅内閣の"延命策"を肯定・評価する気にはなるまい。

では、菅首相の何・どこが悪いのか?と聞かれると…?
他の誰がやったら、もっとうまくできたのか?

菅直人には"徳"がないのである。
鳩山前首相と取り交わした確認書の3項目を見ると、
党内、野党、官僚の3者に「言うことを聞いてもらうことが必要」であることがわかる。
(この背景には、国民・マスコミがいよう。)

「ひとに言うことを聞いてもらう」ため、人を従わせるには「力」がいる。
その「力」には、"権力(法・権限・暴力など)"と"徳"とがある。
党首や総理大臣には勿論、法・規則に基づく"権限"があるが、
それだけでは人は動くまい。
(それだけでいいなら、誰でも首相や課長になれる。)

リーダーシップやカリスマ性などと現代では呼ばれるが、
数百年を超えて(東洋では)、「徳」と呼ばれてきたものが必要であろう。
つまり、党内で従わぬ人がいる。信頼されていない。
野党からも"敵"とは言え、言うことを聞いてもらわねばなるまい。
官僚が言うことを聞かなければ、法案作成・実施はできまい。
マスコミ、世論・国民が、言うことを聞かなければ、支持率は落ち、政権は保てまい。

自分は悪くない、どこが悪いのだ?と思ったって、
人の上に立つものが、人に従ってもらわねば仕方がないのだ。
彼は、この当たり前過ぎるほど当たり前の、基本中の基本がわからない。
何でも自分でやりたがる、すぐ怒鳴る、というのはその証左だろう。
マスコミ受けする政策を自分の口から言うことが、
リーダーシップだ、と思い込んでいる。

小泉内閣総理大臣からであろうか?
"人の上に立つもの"に必要なものは、
"徳"から"リーダーシップ"と"人気"に変わったようだ。
(企業では、東電社長を見ていると、社長という職に就いている"権限"のようだ。)

「徳無き者は去れ」という常識を口にするものは、今はもういない…。

1 件のコメント:

  1. 太田(3期生)です。
    人の上に立つ者に“人気”が求められるようになったのは小泉首相から
    ではないか、とのご指摘については、私もまったく同じことを考えて
    おりましたので大いに頷きました。

    小泉以降で失われたと私が感じているのは、「清濁併せ飲む度量と怖さ」です。
    戯言で先生のブログを汚して恐縮ですが、イメージとしては
    「太田君。まだ若いな君も。威勢の良いのも結構だが、まあこっちに来て
    一杯やりたまえ。うん?  おーい。(パンパン)」
    というような感じになります。

    橋本・小渕・森にはこうした大人の男の怖さがありましたが、小泉首相
    以降には見事にありません(海部にあるか、と言われれば困るのですが)。
    福田では乗り切れない、谷垣では勝てない、といった自民党内の声も、
    その根拠となるのは能力や器よりも「人気」だと思います。

    人気は老若男女を問わないのに対し(小泉ジュニアを前面に出すように)、
    度量や徳は経験を積まなければ身に付けることが出来ません。
    人の上に立つ者に求められるものの変容は、経験や識見についての敬意の
    変化によるものではないかと感じます。
    また、決して政界だけに限られたものでもないように思えます。
    自分がこどものころに見ていた大人はもっと近寄り難く怖い存在でしたが、
    今の自分は全く怖くありません。
    これは私の想像であり偏見かもしれないのですが、万人に対する
    分かりやすさや説明責任を是とする価値観と、度量や経験といった徳の
    尊重は、どうにも相性が悪いように思われます。

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