「AKB48の総選挙」
○AKB48の総選挙がまた行われる、とTVが騒いでいた。
選挙権をCDを買うと得られるという。
1枚買うと1票得られるから、一人で何十枚も買うものもいるという。
(一人で1,000枚買った若者(bakamono?)がTVで取り上げられていた。
彼の部屋は、箱に入ったままのCDが何十箱もあった。)
○何に興味を持ち、何に金を使うかは自由じゃないか、とひとは言う。
だが、「善悪」「賢愚」は問うに値しないことだろうか?
若者が貴重な時間を割いて(勉強等ではなくバイトで)得た金が、
そのようなものに使われる。
人は、与えられた選択肢の中から選択し、
また、その社会・集団の価値観に従って選択する。
「AKB48の総選挙」というイベントの参加権ならまだしも、
CD1枚(2,500円位?)につき1票の投票権を売りつける。
聞くだけなら1枚、最近のようにコレクションとしてもせいぜい2枚しか売れないところを、
何枚、何十枚、何百枚と買わせる。
自分のこのみのアイドルをスターダムに押し上げる、
パトロンとしての行為を普通の若者に与える「革命的意義」がある、
と見ることも可能であるが、
「革命」だからといって、「善」である保証はない。
彼は何十枚、何百枚買って、(金の使い方として)一時的に満足しようとも、
自分の未来を切り開くための投資にはなるまい。
だから、十年、二十年、または三十年たった時、
その何十枚、何百枚の(同じ)CDを見て、
満足するだろうか?後悔しないだろうか?
いや、たとえ、本人が後悔しなくとも、
若者の未来の投資として、貴重な時間と金を本人・親・社会は注ぎ込む。
私は、その期待に応えることを仕事・職業としている。
その若者を、かくも愚かな(「と私は思う」、と断らねばならぬ「愚かな」社会)行為に駆り立てる。
(いくら合法的であっても)許される行為なのであろうか?
○ラジオでも取り上げていた。
5/26(木)TBSラジオ「荒川強啓デイ・キャッチ」で、
山田五郎は、「聞きもしないCDを一人が何十枚も買うとなった時、
「売上ランキング」に意味がなくなる。」批判していた。
(事実、宇多田を抜いて1位となった!?)
しかし、荒川強啓は「うまいことを考えますねぇ…」というばかりである。
確かに、ほとんどのものが。秋元康の商売のうまさに感心しているであろう。
「自分が応援するアイドルをスターダムに押し上げる快感・満足を与える」
ことを商品化したことは「革命的」であろう。
「握手券」「投票券」を付けることにより、そのおまけ目当てで、複数買わせる。
かつての「ビックリマンチョコ」の商法と同じだ。
「ビックリマンチョコ」の商法は、
シールをとった後のチョコ自体が道端に捨てられていたりして、
(本当に捨てられていたかどうか?TVだから…。)
社会的に非難されたのではなかったか?
子供相手なら許されないが、若者相手ならいいのか?
本人も・誰も気付かなかった「欲望」に応える。
持っていなかった「欲望」を持たせる。
その「欲望」を満足させることまで「善」とするが、
「悪」ではないのか?
(私は最初、この文を、「天国と極楽」のところで、
AKB48関係者の誰が天国・極楽に、誰が地獄に、
という問題として取り扱おうか、と考えていたが、
ひとの死・不幸を予想・願うようなものは、
受け入れがたいのではないか、と思い、この形で論じている。)
○何が「幸福」、何が「満足」かなど、絶対的なものなどない、と言う。
何が「愚か」かなど、決められないじゃないか!と言う。
そのくせ、島田紳助の番組やQサマなどを見れば、
「賢い」は客観的にある、と思っているようだ。
しかし、その「賢い」は、
「知識が多い」=クイズい強い。
「テストの点が高い」
「金儲けがうまい」
「他者に先んずる(出し抜くでも可)」
でしかない!!!!!!!!!!!
全体的・総体的・社会的ではなく部分的・個人的に、
長期的ではなく、その時・短期的に、
「合目的的」であれば「賢い」という。
そう、「市場原理」「市場社会」の「経済人」だ。
「常識」「伝統」「倫理」を大切にするものは、「囚われている」とし、
合法的であれば、否定・破壊して「結果を出す」もの(イノベータ―)は「賢い(優れている)」という。
(そのくせ、驕ると、寄ってたかって「犯罪者」に仕立て上げる。
ホリエモンや村上のように…。)
社会は「法」と「規則」だけでは秩序化できない。
常識や、倫理・道徳という社会で共有された価値観・美意識が必要である。
市場社会は背後に(同時に)市民社会を有し、そこには宗教と都市共同体の伝統・慣習という、
共有された価値観・美意識が必要である。
現代日本は、その必要不可欠な価値観・美意識を「目の敵にする」かのようだ。
「しなくてもよいことはしない」
その判断には「見識」がいる。
「儲かるとわかってもしない」
その決定には「意志(覚悟)」がいる。
「豊かな社会」は「金にあくせくしない社会」であろう。
だが、現実は、「金をどれだけ儲けたか」で評価される社会となっているようだ。
大分涼しい日もでてきましたね。現在、100回記念企画に参加者募集中です。現在締め切り延長中です。どん×7、参加しよう!
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2011年5月28日土曜日
三つの箱から世間を覗く(第88回)
「人の話を聞く」とは
会社勤めをしている人は、
毎朝10時からのフジTV「知りたがり」を見ることはないだろうだろうなぁ…。
その日10時までの各チャンネルのニュースショーをまとめた番組。
「なるほど!」各チャンネルをザッピングしている私などは、
感心し、ありがたい番組だ。
その日の共通テーマについての解説もなかなかいい。
この「知りたがり」のコメンテーターも考えられている。
いわゆる「オバサン」中心、
30~60代女性という視聴者の代表3人を
コメンテーターにして画面右側に、机なしで椅子に座らせている。
通常レポーター・解説者のあとに、コメンテーターに語らせる。
だが、この番組は、解説者(「わかる人」と呼ばれている)の解説中に
「オバサン」たちに相槌を打ったり、質問したり、口を挟ませる。
今日は、解説中に話の流れと無関係に、目立つ声で笑った。
おばさんたちは、よくアイヅチを打ち、笑う。
講演では実にありがたい聞き手である。
私が相手にしているのは…。
わかったのか/わからないのか、面白いのか/ツマラナイのか、
講義を聞いている学生は、表情も変えず、黙ったまま。
聞いているいるのか/いないのか、わからない相手に話すのは、本当にツライ!
だから、おばさんたちは、話し手にとっては「神様」だと思う。
だが、だが、彼女たちは、レスポンスしているのだが、
はたして、「聞いて」いるのだろうか?
反応はしているのだが…。
「聞いて」頭に浮かんだことを口にするだけ。
それが、「そうそう」「まあ」「へー」というアイヅチに。
ピンとこなければ、質問に。
「結論」が問題である話は、最後まで聞かねばならない。
そして結論が納得できるかどうかが大事で、
「納得」するために「必要なこと」を質問する。
だから、基本的には最後まで話を聞く。
話には「聞く」と「聴く」があり、
こういうことなんだろう。
私の話は、普段から「聴く」ことを要求する話であり、
しかも、概念を説明するためのの話が挿入されたり、
イメージ連鎖により「尻取り話」となる傾向がある。
聞かされている人、すまない。
途中で適当に口を挟んでくれ。
質問でもいい。話の内容に関する自分の意見でもいい。
(蛇足だが)途中で口を挟みにくいならば、
最後にどんな感想を言おうかを、考えながら聞くようにしてはどうだろうか?
それが「聴く」話の「聴き方」であろう。
そのような「聴き手」を相手に話すことは、
快感であり、幸福である。
会社勤めをしている人は、
毎朝10時からのフジTV「知りたがり」を見ることはないだろうだろうなぁ…。
その日10時までの各チャンネルのニュースショーをまとめた番組。
「なるほど!」各チャンネルをザッピングしている私などは、
感心し、ありがたい番組だ。
その日の共通テーマについての解説もなかなかいい。
この「知りたがり」のコメンテーターも考えられている。
いわゆる「オバサン」中心、
30~60代女性という視聴者の代表3人を
コメンテーターにして画面右側に、机なしで椅子に座らせている。
通常レポーター・解説者のあとに、コメンテーターに語らせる。
だが、この番組は、解説者(「わかる人」と呼ばれている)の解説中に
「オバサン」たちに相槌を打ったり、質問したり、口を挟ませる。
今日は、解説中に話の流れと無関係に、目立つ声で笑った。
おばさんたちは、よくアイヅチを打ち、笑う。
講演では実にありがたい聞き手である。
私が相手にしているのは…。
わかったのか/わからないのか、面白いのか/ツマラナイのか、
講義を聞いている学生は、表情も変えず、黙ったまま。
聞いているいるのか/いないのか、わからない相手に話すのは、本当にツライ!
だから、おばさんたちは、話し手にとっては「神様」だと思う。
だが、だが、彼女たちは、レスポンスしているのだが、
はたして、「聞いて」いるのだろうか?
反応はしているのだが…。
「聞いて」頭に浮かんだことを口にするだけ。
それが、「そうそう」「まあ」「へー」というアイヅチに。
ピンとこなければ、質問に。
「結論」が問題である話は、最後まで聞かねばならない。
そして結論が納得できるかどうかが大事で、
「納得」するために「必要なこと」を質問する。
だから、基本的には最後まで話を聞く。
話には「聞く」と「聴く」があり、
こういうことなんだろう。
私の話は、普段から「聴く」ことを要求する話であり、
しかも、概念を説明するためのの話が挿入されたり、
イメージ連鎖により「尻取り話」となる傾向がある。
聞かされている人、すまない。
途中で適当に口を挟んでくれ。
質問でもいい。話の内容に関する自分の意見でもいい。
(蛇足だが)途中で口を挟みにくいならば、
最後にどんな感想を言おうかを、考えながら聞くようにしてはどうだろうか?
それが「聴く」話の「聴き方」であろう。
そのような「聴き手」を相手に話すことは、
快感であり、幸福である。
2011年5月27日金曜日
三つの箱から世間を覗く(第87回)
「大人の受け答えと大人げない」
橋下大阪府知事が、「県議の数が多すぎる。鳥取県など6人でいい。」などと言った。
これに対して、鳥取県知事が、「大阪の人が鳥取県の自治について議論するのは差し出がましい。大きなお世話だ」
と不快感をあらわにした、という。
橋下は、一生懸命でなかなかよくやっているが、些か子供っぽく、失言が多いというのが大方の認識だろう。
今回の「人口10万人当たり県議1名」という案は一つの聞くべき考えであろうが、
「例えば」と言って鳥取県の名前を出すのは、いかにも軽はずみで、思慮に欠ける発言であろう。
橋下府知事のような「子供っぽい(大人じゃない)」人物の発言に対して、
鳥取県知事の反応は、いかにも「大人げない」、のではあるまいか。
相手は悪気があったわけではないのは明らかなのだから、
笑いながら、嗜めるような発言ができないのだろうか?
「鳥取の名前を出す位なら、滋賀や奈良を…」と口走るに至っては、情けないと言わざるを得まい。
自県の名が出されて不愉快なら、滋賀や奈良と言うべきではなかろう。
同じレベルに降りて、どうするんだ?
菅といい橋下といい、ああ石原都知事もいた、行政の長になったものが、
かくも「大人げなく」なったのはどういうことだろうか?
いや、彼らほど「子供っぽく」はないが、他の政治家も社長さんたちも「大人の貫禄」は感じさせてくれない。
礼儀にしたって、街中での、社外・仕事外での、50、60代の大人、特に男は、若者たちより劣るのではないか?
「若さ」を無条件に礼賛し、憧れ、
「貫禄をメタボ」といい、「熟練・経験よりイノベーション」を重要視したことにより、
「大人」という概念が薄れ、失われ、
大人が「大人」ではなくなってしまったなぁ…。
麻生、鳩山、菅、そして小泉だって、最近の総理大臣は皆大人ではない。
それが、政治に対する「不信感」の基底にあろう。
「大人」の恐ろしさを感じるようだったら、
メディアも国民も、今のように馬鹿にするのではなく、反感・憎悪を感じているのではないか?
アメリカも同じ傾向があるようだが、
日本は、世界でダントツに「大人」がいなくなった社会ではあるまいか?
かくいう私も他人事ではない。
「大人の振る舞い、大人の受け答え」ができないなぁ…。
橋下大阪府知事が、「県議の数が多すぎる。鳥取県など6人でいい。」などと言った。
これに対して、鳥取県知事が、「大阪の人が鳥取県の自治について議論するのは差し出がましい。大きなお世話だ」
と不快感をあらわにした、という。
橋下は、一生懸命でなかなかよくやっているが、些か子供っぽく、失言が多いというのが大方の認識だろう。
今回の「人口10万人当たり県議1名」という案は一つの聞くべき考えであろうが、
「例えば」と言って鳥取県の名前を出すのは、いかにも軽はずみで、思慮に欠ける発言であろう。
橋下府知事のような「子供っぽい(大人じゃない)」人物の発言に対して、
鳥取県知事の反応は、いかにも「大人げない」、のではあるまいか。
相手は悪気があったわけではないのは明らかなのだから、
笑いながら、嗜めるような発言ができないのだろうか?
「鳥取の名前を出す位なら、滋賀や奈良を…」と口走るに至っては、情けないと言わざるを得まい。
自県の名が出されて不愉快なら、滋賀や奈良と言うべきではなかろう。
同じレベルに降りて、どうするんだ?
菅といい橋下といい、ああ石原都知事もいた、行政の長になったものが、
かくも「大人げなく」なったのはどういうことだろうか?
いや、彼らほど「子供っぽく」はないが、他の政治家も社長さんたちも「大人の貫禄」は感じさせてくれない。
礼儀にしたって、街中での、社外・仕事外での、50、60代の大人、特に男は、若者たちより劣るのではないか?
「若さ」を無条件に礼賛し、憧れ、
「貫禄をメタボ」といい、「熟練・経験よりイノベーション」を重要視したことにより、
「大人」という概念が薄れ、失われ、
大人が「大人」ではなくなってしまったなぁ…。
麻生、鳩山、菅、そして小泉だって、最近の総理大臣は皆大人ではない。
それが、政治に対する「不信感」の基底にあろう。
「大人」の恐ろしさを感じるようだったら、
メディアも国民も、今のように馬鹿にするのではなく、反感・憎悪を感じているのではないか?
アメリカも同じ傾向があるようだが、
日本は、世界でダントツに「大人」がいなくなった社会ではあるまいか?
かくいう私も他人事ではない。
「大人の振る舞い、大人の受け答え」ができないなぁ…。
三つの箱から世間を覗く(第86回)
「注水中断(命令)はあったか、なかったか?事件 ~その2~」
誰の指示で55分間の注水中断がなされたのか?
で、国会、TVでワーワー騒ぎ、
斑目安全委員長が言った・言わない、が問題になった。
発表した方が得か?
発表するなら、いつしたら得か?
何を選んで、何を捨てて、
どういう形で(記者会見か、文書か、リークか)発表した方が得か?
どういう表現(言葉・文章で)したら得か?
いや、「得か?」じゃなく、「責められないか?」だろう。
発表したら、「何していたんだ、とか今まで隠していたんだろう」と責められるのは嫌だ、
と思っているんだろうなぁ…。
政府も保安院も東電もその観点だけで発表しているのではないか、と疑わざるを得ない。
こうなったら、完全に信用・信頼できまい。
必要な能力と責任感を持ち得ていない、と疑われている
菅政権、政府、東電であることが明らかなのだが、
正直・誠実を失い、疑われては、完全に終わりであろう。
一刻も早く、政権交代、安全委と保安院のお役御免、東電以外による対応が求められる。
誰の指示で55分間の注水中断がなされたのか?
で、国会、TVでワーワー騒ぎ、
斑目安全委員長が言った・言わない、が問題になった。
発表した方が得か?
発表するなら、いつしたら得か?
何を選んで、何を捨てて、
どういう形で(記者会見か、文書か、リークか)発表した方が得か?
どういう表現(言葉・文章で)したら得か?
いや、「得か?」じゃなく、「責められないか?」だろう。
発表したら、「何していたんだ、とか今まで隠していたんだろう」と責められるのは嫌だ、
と思っているんだろうなぁ…。
政府も保安院も東電もその観点だけで発表しているのではないか、と疑わざるを得ない。
こうなったら、完全に信用・信頼できまい。
必要な能力と責任感を持ち得ていない、と疑われている
菅政権、政府、東電であることが明らかなのだが、
正直・誠実を失い、疑われては、完全に終わりであろう。
一刻も早く、政権交代、安全委と保安院のお役御免、東電以外による対応が求められる。
2011年5月23日月曜日
三つの箱から世間を覗く(第85回)
「海水注入55分間の中断を巡って」
菅首相が「福島原発1号炉の海水注入の中止を命じたため、
55分間の中断が生じ、その間燃料棒の溶融が進んだのではないか?」
と、予算委員会で谷垣自民党総裁が質したところ、
菅首相は、「そのような事実はなかった、何よりも海水注入を聞いていない。」と答えている。
谷垣は、「なかった」と聞いて、それ以上、この問題の追及をしていないようだが、
(TV局は、それ以後の質疑を全く報じないので残念ながらわからない。)
「何よりも海水注入を聞いていない。」という答えに対して、
○では、誰が海水注入を決定・命じたのか?
○そのことを調べたのか?
○「聞いていない」と言うが、聞いていなくてはいけないのではないか?
自分のところまで情報があがっていないことを、調査・問題にしたのか?
○そもそも、海水注入を決定したのは、現場の所長だという。
これは、最高責任者たる総理が決断すべきことではなかったのか?
○以上の諸点をきちんと確認していないとしたら、
あなたは必要な情報を持たずに、適確な決定ができない、
ということになるのではないか?
あなたは、この原発事故対策の最高責任者としては不適格である!
と、なぜたたみ掛け、追及していかないのか?
形としては、「責任追及」をしているようだが、
動機・内実は「あら捜し、咎めだて」なのだろう。
何があったのか?何をしたのか?という「事実」を明らかにすることを求めていない。
「事実」を明らかにすることにより、自ずから「責任問題」が明らかになるのではないか?
相手を「否定する」ことだけに終始する姿勢からは、
「責任問題」は明らかにならず、
また、そのような人間が、きちんと「責任」をとることができるとは思えないのだが…。
この「あら捜し、咎めだて」は、野党だけでなく、
事実を明らかにすることが仕事のマスコミ(特にTV)もまったく同じだ。
「あら捜し、咎めだて」されるばかりだから、
政府も東電も隠す。
そして、TVは事実を明らかにせよ、と言う…。
菅首相が「福島原発1号炉の海水注入の中止を命じたため、
55分間の中断が生じ、その間燃料棒の溶融が進んだのではないか?」
と、予算委員会で谷垣自民党総裁が質したところ、
菅首相は、「そのような事実はなかった、何よりも海水注入を聞いていない。」と答えている。
谷垣は、「なかった」と聞いて、それ以上、この問題の追及をしていないようだが、
(TV局は、それ以後の質疑を全く報じないので残念ながらわからない。)
「何よりも海水注入を聞いていない。」という答えに対して、
○では、誰が海水注入を決定・命じたのか?
○そのことを調べたのか?
○「聞いていない」と言うが、聞いていなくてはいけないのではないか?
自分のところまで情報があがっていないことを、調査・問題にしたのか?
○そもそも、海水注入を決定したのは、現場の所長だという。
これは、最高責任者たる総理が決断すべきことではなかったのか?
○以上の諸点をきちんと確認していないとしたら、
あなたは必要な情報を持たずに、適確な決定ができない、
ということになるのではないか?
あなたは、この原発事故対策の最高責任者としては不適格である!
と、なぜたたみ掛け、追及していかないのか?
形としては、「責任追及」をしているようだが、
動機・内実は「あら捜し、咎めだて」なのだろう。
何があったのか?何をしたのか?という「事実」を明らかにすることを求めていない。
「事実」を明らかにすることにより、自ずから「責任問題」が明らかになるのではないか?
相手を「否定する」ことだけに終始する姿勢からは、
「責任問題」は明らかにならず、
また、そのような人間が、きちんと「責任」をとることができるとは思えないのだが…。
この「あら捜し、咎めだて」は、野党だけでなく、
事実を明らかにすることが仕事のマスコミ(特にTV)もまったく同じだ。
「あら捜し、咎めだて」されるばかりだから、
政府も東電も隠す。
そして、TVは事実を明らかにせよ、と言う…。
三つの箱から世間を覗く(第84回)
「児玉清と長門裕之」
長門裕之の訃報に絡めて、彼の生き方とTVの取り上げ方について述べた。
児玉清の息子が言う。
彼は家族には、「(自分の仕事に)自信がない」と言っていた。
「畏怖心」「畏れ、慎み」が言わせた言葉ではないか?
若手の俳優に対するアドバイスや、
中学時代の友人達との交流のあり方を聞くと、
彼の知性による配慮というものを感じる。
彼が言った言葉が紹介された。
「亡くなった人に贈るものは、悲しみではなく、感謝だ。」
「なるほど」と大きく頷かせる言葉じゃないか?
だが、周りの人々に、感謝されぬ生き方をしていては、
悲しんでももらえまい。
この言葉は、残されたものに求められる姿勢と、
逝くもの(の生前の生き方)に求められる姿勢の両面があるなぁ…。
そして、難しい…。
本を読むことが本当に好きだったという。
書評番組を持てるというのは相当のものだろう。
棺にも読みかけの洋書を含めた数冊の本が入れられたという。
感性と知性で自分を作り上げていったのではないか、と感じる。
ただ、両方を持っている、というのではなく、
知性で感性の方向性を定め、
その感性でキャッチしたものを知性で自己のものとする。
勿論、児玉清に関してTV以上の情報はない。
(博多華丸の「その通り!」「アタック・チャンス!」が浮かぶ、
と言えば、その程度はわかってもらえよう。)
これに比べて、長門裕之の「幼さ」はどうか!
俳優としては評価はされているようだから、人並み以上の感性を持っているのであろう。
だが、その振る舞いは、妻や多くの人を傷つけた本を出したことを筆頭に、
枚挙の暇がなさそうである。
(「感性」の差は別にして)
二人の差は「知性」の差ではないだろうか?
人を見る、自分を見る(顧みる)時に、
「知性」のフィルターを通すこと、
「知性」のコントロールが大切なことを、教えてくれているのではないだろうか。
「知性」が、児玉清に「配慮、畏れ、慎み」を与えていたのではないだろうか。
同じ77歳で逝った二人の生き方。
考えさせられる。
長門裕之の訃報に絡めて、彼の生き方とTVの取り上げ方について述べた。
児玉清の息子が言う。
彼は家族には、「(自分の仕事に)自信がない」と言っていた。
「畏怖心」「畏れ、慎み」が言わせた言葉ではないか?
若手の俳優に対するアドバイスや、
中学時代の友人達との交流のあり方を聞くと、
彼の知性による配慮というものを感じる。
彼が言った言葉が紹介された。
「亡くなった人に贈るものは、悲しみではなく、感謝だ。」
「なるほど」と大きく頷かせる言葉じゃないか?
だが、周りの人々に、感謝されぬ生き方をしていては、
悲しんでももらえまい。
この言葉は、残されたものに求められる姿勢と、
逝くもの(の生前の生き方)に求められる姿勢の両面があるなぁ…。
そして、難しい…。
本を読むことが本当に好きだったという。
書評番組を持てるというのは相当のものだろう。
棺にも読みかけの洋書を含めた数冊の本が入れられたという。
感性と知性で自分を作り上げていったのではないか、と感じる。
ただ、両方を持っている、というのではなく、
知性で感性の方向性を定め、
その感性でキャッチしたものを知性で自己のものとする。
勿論、児玉清に関してTV以上の情報はない。
(博多華丸の「その通り!」「アタック・チャンス!」が浮かぶ、
と言えば、その程度はわかってもらえよう。)
これに比べて、長門裕之の「幼さ」はどうか!
俳優としては評価はされているようだから、人並み以上の感性を持っているのであろう。
だが、その振る舞いは、妻や多くの人を傷つけた本を出したことを筆頭に、
枚挙の暇がなさそうである。
(「感性」の差は別にして)
二人の差は「知性」の差ではないだろうか?
人を見る、自分を見る(顧みる)時に、
「知性」のフィルターを通すこと、
「知性」のコントロールが大切なことを、教えてくれているのではないだろうか。
「知性」が、児玉清に「配慮、畏れ、慎み」を与えていたのではないだろうか。
同じ77歳で逝った二人の生き方。
考えさせられる。
2011年5月22日日曜日
三つの箱から世間を覗く(第83回)
「長門裕之の訃報」
長門裕之が逝った。
キャリアを簡単に紹介した他、
流された映像の3/4は、妻・南田洋子を看護するものだ。
○女優の老いさらばえただけでなく、演技ではない姿を、
(多分)理解して同意していないものを、撮り、流す。
「妻への贖罪」だの、「人間は誰でも老いる。その老いの姿を。」と、言う。
ナルシズムじゃないか!
浮気のし放題で、好き勝手をやり、妻に苦労を掛け通しだった。
その妻を「贖罪」と「老い」の手段・題材に使う。
献身的な妻への看護を「立派」とTVは言った。
金はたっぷり持っているのだから、
映像に映し出される以外の看護は、他人に任せることは可能だ。
(その事実を私は確認していないが)
私は、これほど身勝手な男の姿を世間が賛美するのを何年か前に見て、
何とも言えぬ不快感を感じた。
二人が映っているが、映されているのがわかっているのは長門一人。
そして、コメントされるのも長門一人。
(南田洋子は長門に看護されている対象としてのみ語られている。)
○今回、長門裕之の訃報を伝えるにあたって、
この「無残で、身勝手な、他人に見せるべきではない(と、私は思う)」映像、
ほぼそれだけで長門は「紹介」された。
これまで、このように釈然とせず、逝ったものを悼めない訃報報道はかつてなかった。
彼は、映画俳優であり、優れた作品もいくつもあろう。それを、作品名を流すだけ…。
映像の時間の配分から見れば、長門裕之は俳優ではなく愛妻家(献身的看護をした夫)であった。
美人女優の「老いさらばえた姿」の方が、見たいと思う視聴者が多い、という判断と、
この「刺激的なもの」を自分たちも見たいと番組製作者は思ったのではないか?
長門の「(愚かなナルシズムによる)看護フィルム」は、
南田洋子を2度、長門裕之を1度(2度)「辱めた」。
TVは、長門の「愚かさ」を利用した。
このフィルムで1回商売したのだから、
今度は、「情け」を持ってやってほしかったなぁ…。
(※)このフィルムに関する是非はいろいろあるかと思う。
だが、南田洋子の立場に立てば、
今回の訃報の流し方を見れば、
私は「愚行」だと思わざるをえない。
長門裕之が逝った。
キャリアを簡単に紹介した他、
流された映像の3/4は、妻・南田洋子を看護するものだ。
○女優の老いさらばえただけでなく、演技ではない姿を、
(多分)理解して同意していないものを、撮り、流す。
「妻への贖罪」だの、「人間は誰でも老いる。その老いの姿を。」と、言う。
ナルシズムじゃないか!
浮気のし放題で、好き勝手をやり、妻に苦労を掛け通しだった。
その妻を「贖罪」と「老い」の手段・題材に使う。
献身的な妻への看護を「立派」とTVは言った。
金はたっぷり持っているのだから、
映像に映し出される以外の看護は、他人に任せることは可能だ。
(その事実を私は確認していないが)
私は、これほど身勝手な男の姿を世間が賛美するのを何年か前に見て、
何とも言えぬ不快感を感じた。
二人が映っているが、映されているのがわかっているのは長門一人。
そして、コメントされるのも長門一人。
(南田洋子は長門に看護されている対象としてのみ語られている。)
○今回、長門裕之の訃報を伝えるにあたって、
この「無残で、身勝手な、他人に見せるべきではない(と、私は思う)」映像、
ほぼそれだけで長門は「紹介」された。
これまで、このように釈然とせず、逝ったものを悼めない訃報報道はかつてなかった。
彼は、映画俳優であり、優れた作品もいくつもあろう。それを、作品名を流すだけ…。
映像の時間の配分から見れば、長門裕之は俳優ではなく愛妻家(献身的看護をした夫)であった。
美人女優の「老いさらばえた姿」の方が、見たいと思う視聴者が多い、という判断と、
この「刺激的なもの」を自分たちも見たいと番組製作者は思ったのではないか?
長門の「(愚かなナルシズムによる)看護フィルム」は、
南田洋子を2度、長門裕之を1度(2度)「辱めた」。
TVは、長門の「愚かさ」を利用した。
このフィルムで1回商売したのだから、
今度は、「情け」を持ってやってほしかったなぁ…。
(※)このフィルムに関する是非はいろいろあるかと思う。
だが、南田洋子の立場に立てば、
今回の訃報の流し方を見れば、
私は「愚行」だと思わざるをえない。
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